wikipediaよりのコピー
小野 湖山(おの こざん、1814年3月3日(文化11年1月12日) - 1910年(明治43年)4月10日は、幕末から明治時代の漢詩人。名は長愿・字は舒公、通称は仙助・侗之助、別号に玉池仙史と称した。大沼枕山、鱸松塘とともに、明治の三詩人と称された。近江国の生まれ。
1814年3月3日(文化11年1月12日)、三河吉田藩領であった近江国浅井郡高畑村(現滋賀県長浜市高畑町)に、医師横山玄篤(東湖)の長子として生まれた[1][2]。横山家は加賀藩家老横山党と同族で平安時代前期の公卿小野篁の後裔と伝えられ、後に小野へ改姓した。
当初家業を継ぐべく彦根藩医に医術を学ぶが、本人の好む所でなかったことから、近村の儒者大岡右仲(松堂)に経書史書を学び、1826年(文政9年)父と共に京都において頼山陽に面謁し朱子学漢詩を学ぶことを決意した。1830年(天保元年)九州への漫遊の途上彦根に立ち寄った梁川星巌に会し入門を許され、翌年江戸に向かい、尾藤水竹・藤森弘庵・林大学頭に師事し、梁川星巌が起こした玉池吟社の社友となり頭角を現した。
江戸において生地の領主である松平信古の求めに応じ三河吉田藩儒者となり藩政に関与、後に正式に藩士(60石取り)に取り立てられた。1839年(天保9年)水戸に出遊し、藤田東湖・武田耕雲斎と交友し徳川斉昭と面閲を得て、勤皇の念を篤くし、師梁川星巌・頼三樹三郎・藤森天山・勝野台山等と共に国事に奔走していたところ、安政の大獄が起こり吉田藩は湖山の身を守るため敢えて吉田城内に幽閉した。
桜田門外の変後、幽閉を解かれた湖山は吉田に留まり藩政に関与し、後に京二条家より招かれると藩主と共に上京、朝廷より国事掛に命じられ、幕末より勤皇の士として巌谷一六等と奔走した。明治維新後は従五位に叙せられ、新政府の総裁局権参事・記録局主任となったが、1871年(明治4年)廃藩置県の後、家督を子息に譲り、東京で詩酒自適の生活を送った。その間、政府の再要請を固辞し、詩壇の重鎮として詩作を続けた。1883年(明治16年)明治天皇より硯を賜り、感激して書斎を賜硯楼と名付けた。1910年(明治43年)4月10日、太東岬の別宅において老衰により死去。湖山は少壮より経世の志し有り詩を以って家名の有ることを欲せず。詩は豪胆淡雅・格調が高いと評されている。
~~~*~~~
次に、国立国会図書館のデジタル図書より(抜粋)
【小野湖山翁小傳】 豊橋市教育會編
生立及家系
舊名 横山仙助
滋賀県 近江国東浅井郡田根大字高畑なる横山玄篤(東湖)の長子として生まれる。
父 玄篤は醫を業とし農を兼ね、妻を磯氏といった。
浅井郡は面積三十一方里、之を東西に分ち、東は美濃、西は琵琶湖、北は越前及び若狭に接し。
田根村は田根郷と呼び、中世種川と謂ひ…東鑑に「建久元年近江国田根庄は、按察使大納言朝房の領する所なり。地頭は佐々木左衛門定綱なり」と見ゆ。
~~~+~~~
ココでストップである。この大納言朝房は、他の本(中世久我家と久我家領荘園 岡野 友彦著 続群書類従完成会)には、朝方の間違い…と出ており、大納言朝方が正しいようである。

~~~+~~~
続きを書く。
翁の家名は参議小野篁より出で、石川県金沢の藩老横山家(一萬石)と同族である。
故に翁はもと横山姓を称し、名を仙助といった。
第十二世の祖横山掃部頭家盛が、京極高次に仕へ戦功あり。感状が家に傳へられている。高次は近江の人、織田・豊臣・徳川の三氏に仕へ、大津城主となった。その妻は淀君の妹なるを以って、慶長の役に石田三成及び淀君より西軍に味方せんことを勧誘せられたが應ぜず。家康の東征中に西軍に苦しめられ、一時高野山に遁避したことあり。
横山家盛は高次臣下の驍将で高畑に館し、城州に戦死し。一弟が帰農して世々館趾を守り。今も二百余年を経た建物が存し…
其祖小野篁の古墳は紫野にあり。翁後年金沢の同族横山多門政和(蘭州と号し詩文を能くす)と謀り墓碑修め、碑面の五大字を書し、息正弘の撰文なる「古墳之記」を石に刻して建てた。
…
~~~+~~~
以上が、九里とかかわりのありそうな箇所であると思う。
この小野篁の系図は、次回に載せたい。
小野 湖山(おの こざん、1814年3月3日(文化11年1月12日) - 1910年(明治43年)4月10日は、幕末から明治時代の漢詩人。名は長愿・字は舒公、通称は仙助・侗之助、別号に玉池仙史と称した。大沼枕山、鱸松塘とともに、明治の三詩人と称された。近江国の生まれ。
1814年3月3日(文化11年1月12日)、三河吉田藩領であった近江国浅井郡高畑村(現滋賀県長浜市高畑町)に、医師横山玄篤(東湖)の長子として生まれた[1][2]。横山家は加賀藩家老横山党と同族で平安時代前期の公卿小野篁の後裔と伝えられ、後に小野へ改姓した。
当初家業を継ぐべく彦根藩医に医術を学ぶが、本人の好む所でなかったことから、近村の儒者大岡右仲(松堂)に経書史書を学び、1826年(文政9年)父と共に京都において頼山陽に面謁し朱子学漢詩を学ぶことを決意した。1830年(天保元年)九州への漫遊の途上彦根に立ち寄った梁川星巌に会し入門を許され、翌年江戸に向かい、尾藤水竹・藤森弘庵・林大学頭に師事し、梁川星巌が起こした玉池吟社の社友となり頭角を現した。
江戸において生地の領主である松平信古の求めに応じ三河吉田藩儒者となり藩政に関与、後に正式に藩士(60石取り)に取り立てられた。1839年(天保9年)水戸に出遊し、藤田東湖・武田耕雲斎と交友し徳川斉昭と面閲を得て、勤皇の念を篤くし、師梁川星巌・頼三樹三郎・藤森天山・勝野台山等と共に国事に奔走していたところ、安政の大獄が起こり吉田藩は湖山の身を守るため敢えて吉田城内に幽閉した。
桜田門外の変後、幽閉を解かれた湖山は吉田に留まり藩政に関与し、後に京二条家より招かれると藩主と共に上京、朝廷より国事掛に命じられ、幕末より勤皇の士として巌谷一六等と奔走した。明治維新後は従五位に叙せられ、新政府の総裁局権参事・記録局主任となったが、1871年(明治4年)廃藩置県の後、家督を子息に譲り、東京で詩酒自適の生活を送った。その間、政府の再要請を固辞し、詩壇の重鎮として詩作を続けた。1883年(明治16年)明治天皇より硯を賜り、感激して書斎を賜硯楼と名付けた。1910年(明治43年)4月10日、太東岬の別宅において老衰により死去。湖山は少壮より経世の志し有り詩を以って家名の有ることを欲せず。詩は豪胆淡雅・格調が高いと評されている。
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次に、国立国会図書館のデジタル図書より(抜粋)
【小野湖山翁小傳】 豊橋市教育會編
生立及家系
舊名 横山仙助
滋賀県 近江国東浅井郡田根大字高畑なる横山玄篤(東湖)の長子として生まれる。
父 玄篤は醫を業とし農を兼ね、妻を磯氏といった。
浅井郡は面積三十一方里、之を東西に分ち、東は美濃、西は琵琶湖、北は越前及び若狭に接し。
田根村は田根郷と呼び、中世種川と謂ひ…東鑑に「建久元年近江国田根庄は、按察使大納言朝房の領する所なり。地頭は佐々木左衛門定綱なり」と見ゆ。
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ココでストップである。この大納言朝房は、他の本(中世久我家と久我家領荘園 岡野 友彦著 続群書類従完成会)には、朝方の間違い…と出ており、大納言朝方が正しいようである。

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続きを書く。
翁の家名は参議小野篁より出で、石川県金沢の藩老横山家(一萬石)と同族である。
故に翁はもと横山姓を称し、名を仙助といった。
第十二世の祖横山掃部頭家盛が、京極高次に仕へ戦功あり。感状が家に傳へられている。高次は近江の人、織田・豊臣・徳川の三氏に仕へ、大津城主となった。その妻は淀君の妹なるを以って、慶長の役に石田三成及び淀君より西軍に味方せんことを勧誘せられたが應ぜず。家康の東征中に西軍に苦しめられ、一時高野山に遁避したことあり。
横山家盛は高次臣下の驍将で高畑に館し、城州に戦死し。一弟が帰農して世々館趾を守り。今も二百余年を経た建物が存し…
其祖小野篁の古墳は紫野にあり。翁後年金沢の同族横山多門政和(蘭州と号し詩文を能くす)と謀り墓碑修め、碑面の五大字を書し、息正弘の撰文なる「古墳之記」を石に刻して建てた。
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以上が、九里とかかわりのありそうな箇所であると思う。
この小野篁の系図は、次回に載せたい。