治田と大江氏がどのようにつながるのかが知りたく思う。
山城介久兼が【治田の祖】と言う事は、古くからの治田連とは関係が無く、治田御厨と関係するのではないか。「はった」と呼ぶのではないだろうか?
下記の地図は員弁郡治田郷(治田御厨)である。
員弁郡治田(ハルタ・ハツタ)
【丹波氏族】とある。
近江国浅井郡・栗本郡治田郷・
大和国高市郡の治田神社
この大きな大江氏と私の探している大江久俊・久兼が関係するかどうかはわからない。
【山城介】と言うキーワードで探すと、
中右記のなかに
「山城介兼俊」(大治二年1127年)
「山城介俊弘」(大治五年1130年)の二名を見つけた。
また、山城権介の「中原俊兼」も(保元二年1157年)に存在する。
(この俊兼という名前は多く、中原氏の中でも3名はいる。確か吾妻鑑のなかで、源頼朝が派手な装いをたしなめていたのも中原俊兼だったような気が…小袖切り取られ事件・要確認)
大江久俊(久安二年1146年)
大江久兼(仁安元年1166年)
坂上兼俊(1165・1168年周辺)もいるが、山城介兼俊(1130年)とは別人なのかどうか、判断が難しい。
【山城介】と言うキーワードで探すと、
中右記のなかに
「山城介兼俊」(大治二年1127年)
「山城介俊弘」(大治五年1130年)の二名を見つけた。
また、山城権介の「中原俊兼」も(保元二年1157年)に存在する。
(この俊兼という名前は多く、中原氏の中でも3名はいる。確か吾妻鑑のなかで、源頼朝が派手な装いをたしなめていたのも中原俊兼だったような気が…小袖切り取られ事件・要確認)
大江久俊(久安二年1146年)
大江久兼(仁安元年1166年)
坂上兼俊(1165・1168年周辺)もいるが、山城介兼俊(1130年)とは別人なのかどうか、判断が難しい。
1130年 山城介兼俊
永萬元年1165年 明法博士坂上兼俊
仁安三年1168年 坂上兼俊 (紀伊介)
また、以下の惟宗と中原の俊弘も同様に、難しい。
惟宗俊弘(1156年周辺・大隅守)は山城介俊弘とは別人かどうか迷うところである。(中原俊弘も木工允になっている。)
↓大治五年(1130年)二月権少外記 惟宗俊弘 院主典代 木工允
↓ 大治五年 四月 木工允 中原俊弘
↓ 大治五年 四月 山城介俊弘 新頭 使
↓ 保元二年 三月(1157年) 大隅守 惟宗俊弘 外記
惟宗氏は仕事的には中原氏と同業でもあり、養子縁組もあったと思う。
場合によって、惟宗と中原を使い分けていたのだろうか?
この辺り、インプットが必要である。(中原俊章氏の本を読んでみたい)
惟宗氏と大江氏との関係も知りたいところである。
坂上から中原、そして大江氏へもこれから本・論文を読んでみたい。