銅山と大江氏
右馬助平信忠は壬生家文書によれば、摂津採銅所預(奉行)大江氏の実子あるいは養子であり、検非違使補任のときには大江氏を名乗っている。その摂津には目賀田氏と同様、平姓で信の字を通字とする芥河氏があった。右馬寮の官職に補任され、家紋が杏葉紋であることも目賀田氏と共通している。摂津採銅所の権益を有した平信忠(大江信忠)の直系の可能性がある。(佐々木哲学校 三井・目賀田氏の略系譜より)
大江山も銅山
治田も銀銅山
大江信忠 採銅所 をキーワードにしてみよう。
野間氏は能勢採銅所の預職(奉行職)であった大江氏であったと考えられており(『能勢町史』第一巻)、大江氏が野間を本拠に野間氏となった可能性が高いので、多田高頼の後裔というのは能勢地方で活動するにあたっての名乗りのようなものである可能性がある。
そう言えば、大江広元の妻は多田氏である。
多田銀銅山もある。
永仁三年(1295)摂 津 国採銅所 の紺青 を巡 る事件 が発 生 してい る。少々長いが 「豊能町史18)」か ら引用 させ て 頂 くと次 の通 りで ある。「永仁三年 四月二 日,朝 廷 の細 工所沙汰人基能 らが,採 銅所奉行大江益資の旅宿 であ る 京都四条油小路の小屋 にお いて,銅,紺 青な どの隠 し売 りが行われて いるとの理 由で襲 い,銭 貨 ・紺青等の財物 を争奪 し,そ の屋舎を封鎖す る事件がお こった。 これ に 対 して大江益資 は,採 銅所 の建立以来,大 江家が代 々奉 行 を世襲 して きたが,そ の 間,採 銅所か ら所定分の銅 ・ 紺青 ・緑青 を三種 の土貢 と して上納 した残 りの分 は,奉 行 の 自由裁量 であ り,必 要 に応 じて人 に与え たり売却 し た りして きたのが先例で ある。 また採銅所の所司 は細工 所 の管轄下 に属す る もので もない。 これ らの事情を無視 して,細 工所 の沙汰人 らが強制捜査や屋舎 の封鎖 を敢行 したのは未曾有 の狼籍 であるか ら,は や く狼籍 を停止 し 封鎖を解 除す る措置を とってほ しい と訴 えた(採 銅所奉 行益資書状 案)」
銅と聞くと銅貨を思い出すが、実は色を作る顔料であったようなのだ。
上記の論文資料には、紺青 ・緑青の製法が図解されている。
大江信忠
平信兼…この人は頼朝に討たれた伊豆国目代山木判官兼隆の父 だそうだ。(日本歴史 262)
(上から二番目の資料)平信忠と連なって書かれているが、関係のある二人なのだとすると、大江信忠も桓武平氏大掾氏流であり、山木氏ともつながりがあったかもしれない。