国立国会図書館よりコピーが届き、読んでいる。(公事奉行人山城介久兼とその系譜 脇坂省吾著)
4ページしか許可されなかったので、中間部を飛ばし、頭と最後の部分である。
そこに【関東開闢皇代幷年代記事】のなかに「治田祖 山城介三善久兼」とある旨が書かれている。
そこで、国立国会図書館のデジタルで調べてみた。
すると、山城介三久兼 とある。
さて、此の三は、三善氏とも思えるが、三郎という意味でもあるのではないだろうか?
なぜなら、息の久家の表記は、全てではないが「山城江次久家」とあるため、
先の「山城介三久兼」も「山城介江三久兼」であった可能性もあるのではないか?と思ったのである。
もちろん、大江氏・中原氏、そして大中臣氏も三善氏と同じく文官が多く、婚姻関係や養子縁組もあったであろうと思うのだが、一つの可能性として三郎の意味もありそうであると思ったのだ。
そして、今回初めて知ったのが、【治田氏の祖】=山城介久兼 という部分であった。
ハリタ氏
姓は連。開田にも作る。氏名は土地を開墾して墾田としたことに基づくか、あるいは近江国浅井郡(滋賀県東浅井郡と伊香郡の一部)内の墾田(治田)の地名によるものか未詳。新撰姓氏録では治田連氏を左京皇別下に載せ、開化天皇の皇子の彦坐命の後裔とし、その四世孫の彦命が北方の蝦夷を討って近江国浅井郡を与えられて墾田として、大海・真持らが、その地を開いて住み着き、大海の六世孫の後にあたる熊田・宮平らが治田連の氏姓を賜ったという氏族伝承を載せている。【出典】
彦坐王は、神功皇后・応神天皇に続く。
【彦坐王】
第9代開化天皇と、和珥臣(和珥氏)遠祖の姥津命の妹の姥津媛(ははつひめのみこと)との間に生まれた皇子である。
依知秦氏に続きそうな気がする。
愛智中原氏も開拓領主を名乗っていたと思う。
治田神社(滋賀県草津市南笠町925 )
面白い!
いろいろと調べることがありそうである。
でもヒコイマスは開化天皇に結びつけるために、いかにもいい加減に創った名前だと思います。
コノハナサクヤヒメと同類項だですね(^_-)-☆
そうなのですね。
それも含めて調べていきたいと思います。
小治田氏もいて、ヲワリ田とよむようです。
また、ハッタとも。
軽部とも関係するのかもしれません。