九里 【九里】を探して三千里

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九里氏のマイナス地点から

2020-04-27 | 九里バラバラ情報

片岡太郎経久が、江州中原氏の中原太郎経久で、九里の祖で、冨城中太蓮忍で、あった。」と仮定して進めてみる。

片岡経久の祖父は片岡経俊
経俊と息経春は義経に同行し、各地を転戦する。
兵衛尉経俊は文治元年に没する。1185年に52歳である。1133年生まれとなる。

経俊の父は藤原の八条実俊、母は佐々木定綱の娘(春華門院大進)であった。

ここで、大問題が発生する。

経俊が1133年生まれ。佐々木定綱は1142年生まれ。
という事は、定綱よりも前の世代のつながりであるはず。

しかし、この1142年には疑問もある。
佐々木秀義は1112年生まれである。
長男である「定綱」が秀義が30歳の時に生まれた息となる。

定綱の娘の件は横に置く。(せっかくの再構築…中断)

===*===

経春(常春)は海上常幹の息とも言われている。
この海上経春の母親が鹿島の脇の片岡(大中臣)の娘であったなら、、、
さらにこの時代の鹿島神宮の大宮司家の大中臣氏であったなら。
そして宇都宮氏に寄寓していたという定綱。
大中臣と中原は、重なっている部分もあり、両方を名乗っている場合もある。
宇都宮氏は中原氏でもあった。この片岡氏も中原氏である可能性は高いと思うのだが。


片岡経俊の息経春は、最後まで義経と共に居て、文治五年1189年に没する。38歳とある。1151年生まれ。
経春の弟為春(弘経)は、郷里片岡に蟄居する。貞応元年(1222年)71歳で没する。1151年生まれ。
異母兄弟かもしれないし、養子かもしれない。(中原経久の父は橘次として名を改めている。)

為春の息 経久 北条泰時召して一万石を与う。康元二年(1257年)に83歳で没している。1174年生まれ。

『義経記』によれば……片岡経春は常陸国行方(なめかた)の船乗りである。という説もある。
http://www.photo-make.jp/hm_2_1/yoshitune_3.html

===*===

経久の妻が冨木常忍の母とすると、五男と言われている常忍が1216年生まれ。母親は1185年生まれであったので、年代はOKである。

経久は初め丹後(丹波)国 河守御荘(御がついている場合は天皇領であることが多いそうである。)の地頭として派遣されていたことが1239年の文書に残っている。



山林を室尾谷観音寺に寄進している。

その次に因幡国冨城郷に赴き、在庁官人として働いていたようである。
その時に「冨城氏」と名のるようになっていたのだろう。

1249年か1250年に東国へ戻り、五男の富木常忍は日蓮と出逢ったことで支援者となる。
また、千葉頼胤の家司のような仕事を任される事となる。(出納・執事のような仕事)

===*===

想像だが、片岡利仲・その息片岡利一の系は経春の子孫だったのではないだろうか?
経春の子孫は備前国片岡宮に居たのではないだろうか?

詳しくはわからないが、九里氏ではない。
片岡氏=九里氏ではなく、経任と経久が片岡氏であったと思われるのである。
中原経任が橘氏を名乗っていた訳は「海上荘」の件があったためではないかと思う。
海上荘は橘荘でもあったのである。

片岡経春が源頼朝への態度が悪かったために没収されて、千葉氏の東氏に渡ったのである。
経春の妻が佐竹氏であった事への嫌がらせ?だったのかもしれない。




九里となった系は、経久ー経重ー秀重ー秀宅・乗如ー秀方であり、この後は和歌山の系図につながっていく。が、和歌山への系図につながっていったのは、長男の系である。
経久の二男であった右馬允経季の系は、全く分かっていない。
が、もしかすると佐々木氏とのつながりで近江国の佐々木京極の方に入っていた人物もいたのではないだろうか?と思っている。
なぜならば、我が系九里は周辺が「岡田」「水野」「佐々」「前野」「浅野」「磯野」「永田」
(永田は六角の家臣であったが、後に信長の配下に入っている)である。

湖北寄りのような、戦国時代の乱れがそのままのような、周辺である。


===*===

話を片岡氏に戻す。
九里氏は近江国に行った系が名乗り、上野国の片岡郷・備前国の片岡荘へ赴いた人々は片岡氏そのままなのである。

つまり、大元は大中臣の片岡氏、中原経任が養子に入り、経久の代で、片岡・富木・九里と分かれたとみて良いのではないかと思う。

「中原経任」が「海上荘」を支えるために養子に入り、「橘氏」となって片岡氏の系図の中に経久が書かれたのだと今のところは思っている。

経久は、片岡氏をつなぎ、九里氏・富木氏を始めた祖なのだと思う。
だからこそ、系図の中に残したいと思ったのだろうと思う。

===*===

さて、常忍は貧しかったと聞いている。
常忍は父から「因幡国の冨城郷」を貰ったのだが、使用人が近くの神社に摂られてしまい、うまく機能していなかったようである。
母は長命で、90歳に息子に帷子を縫って贈っていることがわかっている。

この五男常忍の系が、後に「千田氏」「白井氏」「臼井氏」あたりと関係し、「原氏」「岡田氏」となっているのではなかろうか?

===*===










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1 コメント

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Unknown (りひと)
2020-05-04 11:11:49
片岡さん良かったですよね。
行方の船乗りって超気になります。あの辺りのお祭りに出会っていますけど相当動くようでしたよ、陸上でしたけど。
頼朝は佐竹だと嫌がらせしそうなんですね、そこも色々と妄想しますよ。頼朝の周りには色々な情報がありそうですからさらに気になります、誘導って犯人見えないので後世では命取りですからね。ただ結構反省する事も聞く耳もありそうなのでいっときほど嫌ではないですが、探求のテーマとしてのキーワードにはなりがちですね。
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