九里 【九里】を探して三千里

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田辺別当 湛全の弟 左衛門尉定範 宮崎氏と称す。

2016-09-08 | 井口氏 バラバラ情報

湛全とは、湛増の息(四男)である。そして湛全の弟に宮崎左衛門尉定範(湛増五男か、義理の弟か?)がいる。(新宮市史系図+和歌山有田郡誌より)

年代はどうなのだろうか。

湛増 たんぞう
1130-1198 平安後期-鎌倉時代の僧。
大治(だいじ)5年生まれ。湛快の子。源頼政・以仁(もちひと)王挙兵のとき,平清盛について勢力をひろげ,元暦(げんりゃく)元年紀伊(きい)熊野山(和歌山県)の別当となる。のち占いで源氏に味方し,2年源義経の呼びかけに応じ,熊野水軍をひきいて屋島,志度,壇ノ浦の戦いで活躍。文治(ぶんじ)3年法印,権大僧都(ごんのだいそうず)。建久9年5月8日死去。69歳。

これは、宮崎太郎とほぼ同じである。(宮崎太郎は1132年~1195年)

その息子である宮崎(別符?)三郎 三郎の息である【宮崎左衛門尉定範】(1180年位に生まれたか?)
宮崎兄弟に関しては、「田舎の2000年歴史ロマン」に詳しい。

http://shokokuyugyou.com/inaka2000/inaka2000_22.html

宮崎定範 みやざき-さだのり
?-? 鎌倉時代の武将。
越中(富山県)宮崎城を本拠とした。承久(じょうきゅう)の乱で後鳥羽(ごとば)上皇方につき,仁科盛遠(もりとお)らとともに北陸道で幕府軍を迎撃。承久3年(1221)6月8日礪波(となみ)山でたたかって敗れ,その後は不明。(コトバンク)

大正時代に「忠臣」として正五位を贈られた。宮崎の鹿嶋神社境内には、宮崎定範の記念碑が建っている。(共生の里 ささ郷)
http://www.sasagou.com/kisoyoshinaka/pg39.html

湛全の年代は不明であるが、法印湛全、法橋湛全・・・と東京大学史料編纂所のデータベースには出てくる。
湛全は、承久の乱の際に、斬首されたという新宮市史と、それは快実の間違いではないか・・・という紀伊国続風土記。
さて、どちらが正しいのだろうか。

ちなみに法橋湛全も、本人だとすると斬首されなかったことになる。

さて、宮崎太郎の母親や妻、三郎の妻、定範の妻、宮崎太郎の弟である南保の妻、などに熊野出身、熊野別当の人はいなかったのであろうか。


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