九里 【九里】を探して三千里

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京極佐々木氏と京極尼子氏 久徳氏 (1)

2021-11-06 | 佐々木氏

京極佐々木氏から犬上郡甲良荘尼子郷の「尼子氏」となった高久。

佐々木氏信 ー 満信 ー 宗氏 ー 高氏(道誉) ― 高秀 ― 尼子高久

 

地図を見ると、なんと多賀大社、久徳氏がいた場所にかなり近い!

久徳氏は、敏満寺城の城主でもあったと云われ、城郭探訪さんのwebページより部分をいただくと

「永禄5年(1652)9月4日、久徳城(現多賀町久徳)城主久徳左近大輔実時が観音寺城の六角義実の味方をしたため浅井長政が80余騎の軍勢を率いて久徳城を攻めます。

この時、敏満寺衆徒と敏満寺公文所・神官職を務める新谷(しんがい)伊豆守勝経(妻は久徳実時の娘)は、久徳実時の味方をします。

浅井勢は敏満寺に押し寄せ、敏満寺衆徒は大門前で防御しましたが敗れてしまいます。

勝ちに乗じた浅井勢が敏満寺の坊舎に火を付けたため120の坊舎は悉く炎上し新谷勝経ら800余人は戦死し、敏満寺は滅亡したということです。

胡宮神社の参道入り口となっている高速道路高架下に敏満寺大門跡がありますが、礎石は火を受けて赤色に変色しており、焼き討ちにあったことを静かに物語っています。」とある。

 

この尼子高久の父となる人物「京極高秀」

その兄弟であった秀綱が吾全を名乗り、その息秀隆が岡田を名乗る。

吾全とは地名なのであろうか?

https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/d38c9b7f2e403c01c48d29df6b70c6e0

高氏~秀綱~秀隆(岡田)である。

上記のブログの系図に記載のある秀綱は【吾全秀綱】ことであろうと思われるため、岡田氏の裔・後の京極高次の分限帳に記載のあった岡田清左衛門につながってくると思う。

(私の直系九里は江戸初期に「岡田政直」と名乗っていた。其の後九里に改める)

 

其の尼子氏の配下に【隠岐氏】がいた事にも注目してみると、wikipediaに

隠岐氏は隠岐の国人京極氏の庶流・尼子高久の弟である秀重(宗清の祖父)が隠岐氏を称したとされる(諸説あり)。 」

この隠岐氏と佐々木泰清周辺の隠岐氏とは繋がるのであろうか?

 

隠岐氏もwebページを掘ってみると、非常に面白いことがわかってきた。

隠岐太郎政義の記事を良く読むと、出家をしたのは42才の時であったことがわかる。(1250年)

それまでは隠岐・出雲両国守護職として働いていたのである。

隠岐・出雲 両国守護職
1233年 - 1248年

とある。

1208年生まれなので、1250年の事件の前に泰清にその守護職は渡っているようだ。

それでも40歳まで15年間「守護職」に就いていたのである。

 

もしも、政義と弟の泰清が同じ母親であるならば、大庭景親の娘となる。(波多野氏・中原氏に近い)

そして、政義の甥となる「時清」の母は大井朝光の娘であり、時清の妻は大曾禰長経の娘となる。

この辺りのつながりが、戦国時代の板垣氏から乾氏へと繋がっていくラインの伏線ではないだろうか?

 

大井朝光は小笠原氏であり、

建久9年(1198年)、小笠原長清の七男として生まれる。母は上総権介平広常の娘。

大井朝光の姉妹に「大弐局」がいて、wikipediaからひいてくると

建暦3年(1213年)5月、3代将軍源実朝は由利八郎惟平の子由利惟久が和田合戦に際し、北条義時について和田勢と戦いながら戦後「造意の企」ありとして、由利の所領を没収し養育係の大弐局に与えた(『吾妻鏡)。大弐局は源頼朝の側女であったと思われるが、子がなかったので甥の大井朝光を養子とし、出羽国由利郡の所領を継承した。以後、由利郡には大井氏一族が地頭代として移住し、由利十二頭に称せられる、仁賀保氏矢島氏などの祖となった。それ故、由利郡には、矢島、根々井、長土呂、平塚、沓沢、軽井沢など佐久郡と共通する沢山の地名が存在する。」

 

因みに、大曾根氏もwikipediaから借りると

「平安時代の大曾根氏は源頼朝側近であったが、頼朝の死後中枢にいた安達盛長に仕え始めた。

これにより盛長の子の安達時長の子孫の安達氏の支流が三河大曽根荘の大曾禰氏。

現在の名古屋市北区大曽根を拠点としたため、大曾禰と姓を名乗った。

しかし安達氏霜月騒動大曽根氏も参戦するが惨敗。命を狙われ武士としての地位を失った。

しかし大曾根盛経が敵兵に捕まるが、若く勇敢な盛経に感動して、敵兵は盛経を解放したと言う。

安達氏が滅亡し、幕政への復帰は自粛しろと幕府の命令が下され大曽根氏は失脚

しかし盛経や時長の主張により、幕府復帰が認められた。」


戦国時代

元々は土岐氏(上総土岐氏)のの家臣で、土岐氏の中でも有力な家臣であったが、後北条氏上総土岐氏が滅ぼされると後北条氏の家臣となった。寺家(てらうち)の飛騨守であった。

 

つまり、安達氏と土岐氏とのつながりが見えてくる。

 

続きはまた明日に!

何処かに糸口がありそうな周辺事情と思う。

 


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