大正九年の九里は?
九里四郎のことと思われる「道柳子」
まず、四郎の父は南郷茂光であり、加賀藩士・遠藤家の出であった。南郷氏に養子に入り、その息四郎が同じく加賀藩士であった九里に養子に入る。
南郷茂光の妻は嘉納治五郎の姉の柳子である。
私の予感でしかないが、この「道柳子」とは九里の妻である道子の「道」、そして南郷であった時の実母の柳子の「柳」という意味ではないだろうか。
大正12年、とんでもないことが起きてしまう。関東大震災。妻と長女をこの震災で亡くしてしまう。
震災被害者の遺族による「妻と子を掘る記」(九里四郎)が残されていることを知った。
file:///C:/Users/mamo/AppData/Local/Temp/1.pdf
PDFの68頁にその時の気持ちが記されている。
息子たちと奈良に移り住み、志賀直哉を奈良に誘う。息子は「正」と「光」か? 正のことはwikipediaにでていた。
交友関係が広かった九里夫妻なので、そのあたりを探るといろいろとわかってくるかもしれない。
そうなのだが、いつも中途半端で終ってしまう。
高村光太郎 とも交流があったようだ。
http://koyama287.livedoor.blog/archives/2018-06.html
これは、うれしい新情報であった!!
【折々のことば・光太郎】
物は一見するに如くはないが、一見する甲斐ある人と、甲斐なき人とある事は争はれない。スケツチ帖を厚くしに渡欧する人々も多い世の中である。散文「画家九里四郎君の渡欧を送る」より 明治44年(1911) 光太郎29歳
九里(くのり)四郎は光太郎より3歳年下。光太郎が彫刻科を終えてから再入学した東京美術学校西洋画科での同級生で、白樺派の面々とも関わっていますが、現代ではほぼ忘れられかけた画家と言っていいでしょう。
光太郎曰く、九里は「一見する甲斐ある」画家。他の箇所では「色彩に対して本能的な好趣味と理解力とを有(も)つてゐる」「此一事は実に芸術家の旅行券(パツスポオト)である」と激賞しています。
コメントありがとうございます。
この場に出さない方がよろしいのかな?と思い、私の返事だけを書き込む形といたします。
震災被害者の遺族による「妻と子を掘る記」のアドレス、繋がっていませんで、失礼いたしました。つくば…の方もTryしてみましたが、残念ながら繋がらなかったようです。
九里龍作と嘉納治五郎の縁があって…九里家の養子となったと思われるのですが、確証はまだありません。
何かご存知でしたら、教えていただけますと有難いです。
どうぞよろしくお願いいたします。