九里 【九里】を探して三千里

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十市皇女の父は、天武天皇ではないかもしれない。 高市皇子の父も天武天皇ではないのではないだろうか?

2023-01-23 | 古代からのつながり

疑問点だけmemo代わりに留めて置く。

 

このことは額田王しかわからない事なので、正解は永遠に不明なのだが。

 

十市皇女の父は金春秋ではないだろうか?

天武天皇は646年頃、どこにいて何をしていたのだろうか?

姿は見えるのだろうか?

645年の乙巳の変には登場はしていない大海人皇子である。

 

十市皇女が生まれたのは、私は648年かもしれないと思う。

647年9月に高向玄理とともに新羅より我が国にやってきていた金春秋。

 

その時に金春秋(43歳)や金法敏(21歳)に出会ったのが、言葉も話せる(古代朝鮮語)額田王だったのではないだろうか?

十市皇女の父は金春秋(後の武烈王だったのではなかったのだろうか?

 

法敏はそのまま人質として日本(倭国)に残っていたのではないだろうか?

 

648年に十市皇女(とおち)が生まれる。(母は額田王) 

 669年に十市皇女は葛野王、その後、壱志姫王を産んでいる。

 

654年に高市皇子(たけち)(母は宗形徳善の娘尼子娘)が生まれる。

 676年に高市皇子の息 長屋王が生まれている。

 

高市皇子はなぜ天皇にはならなかったのか。もしくはなれなかったのだろうか。

十市と高市の両方に「市」という文字が入っているのは、偶然なのだろうか?

 

金法敏は新羅王の文武王となる。(661年)

白村江の戦い(663年)

金法敏が唐の太宗に会いに行く。(650年)

高句麗討伐(668年)

唐・新羅戦争 三国が一体となるよう 新羅・高句麗の王家の結合をはかる。(文武王妹を安勝高句麗王に降下)(671年)

在位21年文武王死去。(681年) 

 

文武王は、

新羅では初めての火葬、骨壺は日本海の浜辺に。海中王陵となる。

http://inoues.net/korea/korea_bunbu.html

死して龍神となりて故国を守らん」

 

上記の気持ちとは反対なのだが、

私には心の故郷であった(青年時代を過ごした)日本(倭国)へ向けられていた証拠ではないのか?と妄想している。

母・妻・子どもたちは日本にそのまま残っていたのではないか。

法敏は626生まれで661から681年在位なので、35歳から55歳まで在位したことになる。

法敏は650年に唐太宗に会っているようなので倭国にはもういなかった可能性が大なのだが、一応私のなかでは、高市皇子の父親ではないかと想像している。

 

*****

 

金法敏(文武王)の母親は日本人(倭人か日本にいた帰化人)であろうと思われる証のような、火葬と日本海の海の中の王陵。(火葬は日本では700年が初めてと言われているそうで、証にはならないことがわかった。)

十市・高市の「市」の符号。

 

壬申の乱(672年)の際に天武天皇(大海人皇子)は「我が子は皆まだ幼い」というような意味の言葉を発しているが、そうなると高市皇子(18歳)は天武天皇の息ではない。

 

678年に十市皇女が歿しているが、毒殺だろうか?

斉明天皇は額田王の毒殺説もあるが。(小林惠子説)

 


天武天皇7年(678年)、天皇が倉橋河の河上にたてた斎宮に出向こうとした当日である4月7日朝に急死。日本書紀には「十市皇女、卒然に病発して、宮中に薨せぬ」と記されていた。このため天皇の行幸は中止となり、斎宮での祭りもなくなった。皇女は4月14日に大和の赤穂の地に葬られた。この際父の天武天皇が声を出して泣いたという。死亡時、十市皇女はまだ30歳前後であり、この不審な急死に対しては、自殺説・暗殺説もある。 

 

 

660年に百済は滅亡した。百済の遺臣は復興を目指し倭国や高句麗の支援を頼みに唐・新羅に対し反乱を起こしたが、663年に倭国から派遣された援軍は白村江の戦いで大敗し、百済復興は失敗した

668年以降、日本は遣新羅使を派遣。

672年壬申の乱で勝利した大海人皇子(後の天武天皇)は、親新羅政策をとった

 

*****

 

672年に親新羅政策をとることになった天武天皇を思うと、

その新羅国王の娘かもしれない十市皇女を天武天皇自身が毒殺(自然死かもしれない)はしないであろうと思う。

 

額田王と天智天皇と天武天皇の三角関係の恋愛や、

高市皇子の挽歌による十市皇女への想いなどとは『全く違う現実』があったのではないだろうか?

 

皇子らが成長すると、8年(679年)5月5日に天武天皇と皇后は天武の子4人と天智の子2人とともに吉野宮に赴き、6日にそこで誓いを立てた。天皇・皇后は6人を父母を同じくする子のように遇し、子はともに協力するという、いわゆる吉野の盟約である。しかし、6人は平等ではなく、草壁皇子が最初、大津皇子が次、最年長の高市皇子が3番目に誓いを立て、この序列は天武の治世の間維持された。

天智天皇の子は皇嗣から外されたものの、天武の子である草壁は天智の娘阿閉皇女(元明天皇)と結婚し、同じく大津は山辺皇女を娶り、天智天皇の子川島皇子は天武の娘泊瀬部皇女と結婚した。

天武の皇后も天智の娘であるから、天智・天武の両系は近親婚によって幾重にも結びあわされたことになる。

 

 

武烈王・文武王の事 とても学びになる!

http://news.onekoreanews.net/print_paper.php?number=70194

金春秋は王になる前に高句麗(642年)、日本(647年)、唐(648年)を訪ねて最高指導者に会う、命をかけた外交をなした。当時は海を渡ることだけでも危険な旅行なのに、敵陣に入ったのだ。彼は三ヶ国の首都に長く滞在しながら指導者たちと深い対話を交わした。三国史記と日本書記(*左写真)、旧唐書には金春秋の優れた風貌が日本と唐の指導層に深い印象を残したと記されている。
金春秋はこのような対話と見聞を通じて多くのことを学んだ筈だ。日本、高句麗、唐の指導部に関する情報だけでなく、彼らの長短所と戦略・戦術、そして多様な文化と芸術および制度に対してもたくさん学習したはずだ。特に、当時世界最大都市だった唐の長安で彼が見て感じたことはその後新羅の内部改革にも多くの参考になった筈だ。
金春秋が到着した西暦648年の長安は、華麗な文化を誇っていた。唐の全盛期を開いた太宗が即位して22年、‘貞観の治"と呼ばれる太平の世だった。金春秋は巨大な建築物だけでなく長安にやってくる外国人と外国文物に接してさらに感心しただろう。唐は対外開放政策を取って長安には北方と西域と西洋の商品、芸術、宗教が集まった。イスラムとキリスト教にも接することができた。
金春秋は長安に少なくとも六ヶ月以上留まった筈だ。彼は唐太宗に会って羅唐同盟を結び、百済と高句麗を討つことを約束する。三国の使節の中で金春秋のように中国の皇帝に直接会って談判した人はかつてなかった。新羅だけでなく韓民族の運命を決めた頂上外交だった。
金春秋は、中国の最も偉大な人物の一人である唐太宗を動かすほどの人品と教養の持ち主だった。東洋三国を旅行しながら当代の最高の人物たちと長い対話を交わした経験が彼の人格と経綸へと昇華されただろう。
金春秋は三人の息子、すなわち金法敏、金仁問、金文王まで唐の朝廷へ派遣して務めるようにした。宿衛と呼ばれるこの制度は、新羅の王族が唐の皇帝に仕えるという名分で唐の朝廷の中にいながら先進文明を学び同時に情報を収集する機能をなした。
 
春秋の三人の息子たちが唐へ行ったことはまた別の意味もある。当時唐の首都の長安城は国際都市として新羅人としては想像もできない様子を見せていた。それは春秋の父子には途方もない衝撃であった筈だ。そういう衝撃は行ってみた人でなければ分からない経験だった。この経験を通じて春秋は新羅の中国化、つまり世界化を構想するようになり、彼の息子たちと一緒にこれを実行に移すことになったのだ。>
後で太宗武烈王になる金春秋と文武王になる金法敏は、当代最高の政治と制度と文化を見聞することで高い識見を持つ人物になった。こういう実力が三国統一を導いたリーダーシップだった。二人は経歴上は親唐派だったが、国益と自尊心に関わる問題において唐との戦争も辞さない徹底した自主派だった。真の自主精神は北韓式の閉鎖から生まれるのでなく、金春秋、文武王、李承晩、朴正煕のように開かれた精神から生まれるということが歴史的教訓だ。
金春秋は唐太宗に会って羅唐同盟の約束を結んで帰国した後中国の年号、衣冠を採択する。狭く見れば中国化で、今の表現をすれば世界化の改革政策を推進したのだ。これは中国が主導する東洋文明の主流に新羅を便乗させたのだ。

 

新羅国の文武王と倭国
~文武王の海中王陵に見る対日観~  彦 著 も、大変参考になり、面白く読ませていただいた。

 


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