小林惠子氏の説 新羅の「文姫」こそ額田王であるは、年代的に無理があるのではないかと思い始めている。
金庾信(キム・ユシン)が生まれたのが595年
宝姫
文姫
金春秋 603年生-661年歿
金法敏 626年生-681年歿
天智天皇 626年生-672?歿
天武天皇 ?- 686年歿
十市皇女 669年に葛野王を産む。
もしも文姫が額田王であるならば、法敏は文姫の息ではないことになると思う。
額田王の十市皇女が生まれたのは648年以降であろうとのことで、法敏を産んでいたとすると610年には額田王も生まれていないと…となる。そうなると38歳で十市皇女を産んで…となる。そうなると天武天皇とのバランスが崩れてしまう。
天智天皇は626年生まれである。金法敏と同年である。
天武天皇の668年にはじめて皇太弟として名が出てくる。在位は673年からである。
そうなると十一皇女が生まれた頃、天武天皇は18歳くらいと仮定しても630年生まれとなる。
668年皇太弟になったのが38歳。
686年崩御なので630年生まれと仮定すると56歳。
678年に30歳近くの十市皇女が亡くなり、その頃48歳の天武天皇となる。
十市皇女がもしも武烈王の娘であったとしても、額田王は天武天皇(大海人皇子)に嫁いでから産んだと思われる。
しかし、この額田王が武烈王に嫁いだ話も違うかもしれないので…微妙となる。
武烈王に嫁ぎ、法敏を産んだことになると20歳は年上の額田王とならないとありえないため、
額田王は法敏の母とはならない。
上記のことから、額田王の周辺の人(母親・叔母)かもしれないが、額田王本人が文姫とはならないと思うに至った。
天武天皇が即位した時に額田王が63歳前後とは思えない。
やっと、宝姫・文姫の話に行き着いた。
朝鮮半島と倭国であった日本がこんなにも結びつきがあったとは夢にも思っていなかった私には、良い刺激となりました。