蚕を飼うには「桑の葉」が必要であり、其の桑の葉を柔らかくするために冷たい水が必要なのだそうだが、
蚕自体は水を嫌うそうである。
桑は食用にも木材にもなる万能選手である。
https://iroai.jp/silk-history/
中国の情報では8500年前から絹織物を作っていたそうである。
https://www.recordchina.co.jp/b158866-s10-c30-d0035.html
https://story.nakagawa-masashichi.jp/craft_post/121048
日本においては、195年に朝鮮から蚕の卵が伝わったという記録が残されている。またその2000年以上前の弥生時代の遺跡から絹の布が発見され、中国の歴史書にも邪馬台国での養蚕の記録があることから、遅くとも弥生時代の中頃には日本に養蚕技術が入ってきていたと考えられている。
↓
(195年の2000年前が弥生になる??)
立岩遺跡にも『素環頭刀子』に巻かれた絹織物が出土されているようである。↓
歴史的に見た日本文化と養糸業 布目順郎 著
https://www.naro.affrc.go.jp/archive/nias/silkwave/hiroba/Library/SanshiGijyutu/No087-7308.pdf
「絹の文化」嶋崎氏のお話
https://www.naro.affrc.go.jp/archive/nias/silkwave/hiroba/summit01/toujitu/simazaki/simazaki.htm
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%8B%E5%B2%A9%E9%81%BA%E8%B7%A1
網野善彦の論文
『日本中世の桑と養蚕』
美 濃 国 茜 部 荘,安 芸 国 都 宇 竹 原 荘 ,肥 後 国人 吉 荘,薩 摩 国 下 村 郡 ,筑 前 国 宇 美 宮
,安 芸 国 三 入 荘,美 濃 国 大 井 荘
今まで私が調べてきた中との接点の荘園を太字にしてみた。
生糸、撚ってある絹、桑 などをキーワードにしたことがなかったため、新たな視点が加わった感じがする。
此の 茜 部 荘は、特に大中臣氏を調べていた際に出てきたはずである。
大化の改新の際の「田之調」
wikipediaの中に「特に美濃国で作られた絁(絹織物)である美濃絁と、上総国で作られた布(麻織物)である望陀布は、古くから品質は上質とされ、かつ東国豪族の忠誠の証を示す貢納品としても評価され、「東国の調」と呼ばれて古くから宮中行事や祭祀に用いられてきた。このため、美濃絁・望陀布に関する規定が特別に設けられていた。 」
…とあるように、美濃国は絹で有名であったようだ。
茜部荘は源光国が関わっており、また大中臣氏がまとめ役となっていたようである。
源光国の妻が大中臣輔清の娘であることも、関係しているかもしれない。
奈良時代の文献にも、
「五匹備中長絹 一匹美濃調絹 一匹安芸 三匹・・・」
と出てくる。
茜部荘自体は源光国の時代には東大寺の管轄であったようで、「東南院文書」の中に美濃調絹に関しての記述がある事と関係しそうである。
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さて、前回の「元糺の池」の元糺は、元に糺すの意味かもしれない。
蚕は、繭のまま乾燥させ、羽化させないようにするために命そのものをいただいている。
其の命(繭の中の幼虫)を元に戻してやるための慰霊の場所だったのではないだろうか?