残念ながら結城朝光と琵琶の接点は見つけることができなかったが、三浦光村と琵琶は繋がっていた。
川村一彦様の著作にも「光村は武芸に秀でると共に管弦に優れ、藤原孝時から伝授を受けた琵琶の名手であった。 」とある。(歴史の回想・宝治合戦より)
孝時の父、孝道はなぜか息孝時には厳しく、時には嫌がらせのようにも感じるほどなのだが、何か理由があったのか、はたまた後妻 可愛さだったのか…そのあたりはわかりかねるのだ.
熊野の「み熊野ねっと」さんのページには
https://www.mikumano.net/setsuwa/geido.html
「法深房は琵琶の名手になることを熊野の神様に祈り、その祈りの通りに琵琶の名手となりました。」とある。
藤原孝時もまた琵琶一筋で頑張ってきた方と思っている。
三浦光村の方は、公暁の門弟となっていた時期もあったそうで、波乱含みの始まりでもあった。
最後は一族がほとんど歿する中、
三浦胤村が奥州にいたため、乱の責任はないという事で助命された。
胤村は親鸞の弟子となって【明空房】と名乗り、常陸国下妻に光明寺を開基したそうである。
三浦義村の息・娘たちは、千葉氏・土岐氏を結び付ける形ともなり、気になっている。
光村の妻であった 藤原能茂(よしもち)の娘。
能茂は秀能の猶子であり、西蓮のことと思う。
「医王丸は、成人して藤原能茂を名乗り、承久の乱後は後は配流先の隠岐にまで後鳥羽院に同行しており、その崩御後には遺骨を奉じて上洛したという。」と本にあった。