朽木氏はweb情報に「朽木氏は朽木谷城を拠点に「室町幕府奉公衆」を務め、戦国時代の当主「朽木元綱」も足利義輝・義昭に仕えた。」とあるが、足利義澄も足利義晴も一時避難していた場所でもあった。
義澄は、朽木谷より九里の居城していた『水茎岡山城』へ船でやってきたという説があるが、
「永正5年(1508年)4月、前将軍・義尹(義材より改名)を擁立する大内義興の軍が上洛してくるとの報により、近江国の六角高頼を頼って朽木谷、さらに蒲生郡水茎岡山城に逃れた。7月、義澄は将軍を廃され、義尹が将軍に返り咲いた。」
しかし、下記の稿によると、甲賀を走ったのが義澄のようにも見える。
甲賀から水茎の岡山城だったのだろうか?
そこで、もう少しココを調べてみようと思う。
『甲賀に走り』とは細川澄元と三好之長が甲賀の山中氏を頼った時のことなのだろうか?
しかも、この稿は表紙を見る限りでは永正五年(1508年)とある。
件の細川政元の家督争い(永正の錯乱)は永正四年(1507年)である。
永正四年八月に細川澄元は正式に政元を継ぐこととなって、足利義澄に会っている。
これらの手稿を見る限りでは
文亀三年(1503年)に、足利義澄より一字賜り、細川六郎から澄元と名乗り、
永正四年(1507年)に家督争い(永正の錯乱)があって、
永正五年1508年に足利義澄が水茎岡山城にやってきた、が、正しいように思う。
したがって、甲賀に逃げて山中為俊に匿われた中に足利義澄がいたかどうかまではわからないが、それは細川澄元と三好之長の可能性が大きい。
その次の年に足利義澄は朽木谷より水茎岡山城の九里氏のもとに依ってきたというのが、正しいようである。
この山中為俊は、山中長俊の父である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E4%B8%AD%E9%95%B7%E4%BF%8A
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/o_ymnaka.html
『江州の住人 九里備前守・山中新左衛門等 先年ヨリ三好と一味シ』と書かれていたのも、九里とつながりがあった証拠となろうと思う。
☆朽木谷の場所を地図で調べたので、貼っておこうと思う。