興福寺と東大寺の文書に顔を出す乾氏
乾賢隆・乾賢英・乾賢幸・乾賢蓮…
特に「宝珠院文書」に出てくることがわかったので、宝珠院を調べてみた。
https://www.city.kobe.lg.jp/information/institution/institution/document/kobesisi/houshuin.html
神戸市文書館HP より↓
新たに公開された
京都大学総合博物館所蔵「宝珠院文書」と神戸 より
(一部・抜粋です。)
2006年3月、京都大学総合博物館が所蔵する、中世から近世にかけての、760通あまりの東大寺の関係史料からなる「宝珠院文書」(ほうしゅいんもんじょ)が公開されました。この「宝珠院文書」とは、同じく京都大学総合博物館蔵の「法華堂文書」、東大寺図書館蔵の「宝珠院記録」とともに一括で東大寺の塔頭、宝珠院に伝来した文書と考えられています。
鎌倉時代における東大寺から朝廷への訴訟や、室町時代の東大寺領荘園の管理の様子を明らかにしています。
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源義経 熊野で育った説。(紀伊国藤白も含まれるか?)
義経記に関する文献・論文を読みつつ、ますます!
鈴木重家物語の担い手とその展開-『義経記』成立考序説- 内田源 著
http://hdl.handle.net/10105/10895
そう言えば佐藤兄弟も、もしかすると西行の「佐藤 義清」の佐藤
つまり紀伊国の「田仲荘」にいた佐藤氏であったかもしれない?!
鈴木氏・佐藤氏・亀井氏…弁慶もしかり、紀伊の仲間たちであったのではないだろうか?
西行、義経の様子を見に(表向きは大仏様のための金を集めに)奥州まで足を運んでいるではないか! 確か銀の猫も子どもに渡してしまったのではなく所持品に対の猫?と書かれていたように思う。
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源経方の息「行範」という事だが、藤原実方(藤白鈴木氏と義理の兄弟)(母は源雅信の娘)(源雅信は経方の曽祖父)の末裔ならば、当然鈴木とも遠戚である。
源為義と熊野以前に、もう熊野と縁はあったのである。
行範は1173年位までは生きていたと思う。
妻の鳥居禅尼は長生きで、1210年まで生きていたといわれている。
源頼朝の叔母にあたる。1140年に行範に嫁いだそうである。
源義経が1160年に父を亡くし、一歳の時に預けられていたとしても、充分育てられる環境であったのではないだろうか?
行範、気になる!!!!
乾氏の祖!!!
義経の息が「乾氏」と名乗ることとなったのも、行範の養子的存在であったから?
…という事もあるのではないだろうか?
反対に義経の息が「乾氏」を名乗ったために行範が「乾氏の祖」と言われるようになったのかもしれない!!