近江国長浜には、元は大きな縦長の「乾村」があったのではないだろうか?
それが分断したのかもしれない。
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さて、乾氏がもしも義経の裔だった場合、秀義の六男巌秀(吉田氏の祖)がともにいたのではないだろうか? 亀井六郎重清のことである。
確か義経の仲介で鈴木三郎重家と亀井六郎重清の二人は義兄弟になったはず。
http://kawa-k.vis.ne.jp/chiikisi/asiato4.6.htm
「亀井六郎の出自は佐々木秀義の六男で、鈴木三郎重家と義兄弟の契りを結んだとする『続風土記、藤白浦旧家、地士鈴木三郎条』の記述が、亀井六郎の人物像を明らかにしている点でも、信憑性のあるものといえます。」
近江国内の「乾」の場所のひとつは、蒲生郡桜川周辺「杣」あたりにあったと思われる…という事だが、近くに河合・河守があり、巌秀の裔である吉田氏に関わりがあった場所ではないだろうか?

行範と鳥居禅尼が預かった赤子であった義経は、鞍馬に行く前はここ熊野で育ったのではないだろうか?
↑妄想
時を経て、勧修寺坊の娘を母とした義経の息「乾氏」が、やがて興福寺や東大寺の領を預かる役と成長していく。
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乾賢隆
文安三年(1446年) もしかすると17歳とは「乾賢隆」のこと?

