新編岡崎市史によると、「402 ページ
源為義の女で頼朝のおばにあたる鳥居禅尼二九代熊野別当行範の妻)は何か所の
地頭職を給されていたが、その一つ紀伊国佐野荘は尼の死後子息長詮法橋に相伝と
定められていた。ところが長詮の兄法橋行忠は母の命に背いて同荘を押領したのみなら
ず、 ...」
http://www.geocities.jp/okugesan_com/torii.htm
この法橋長詮と忠氏(初名行忠)、二名の名前が合致したということは、やはり佐野庄と鳥居氏、鳥居氏と佐野鈴木は繋がっている可能性大ではないだろうか。
…とすれば、佐野鈴木氏の祖【鈴木季重】=【熊野別当行範】=【鳥居重氏】=【佐々木行範】ということになるのではないだろうか?
季重と行範は、イコールではないかもしれないけれど近いところにいた人物と思えるのではないだろうか。
安易すぎるかもしれないので、もっと探ってみたいと思う。
鳥居家・壬生藩の上記のweb系図に拠ると【重氏 (道観。鳥居法眼。高倉宮御謀反のとき行家が方人となり、のち新宮に住す】と書かれている。
このことからも、源行家と行動を共にしていたらしい。
…とすれば、1173年に亡くなっていない行範???
行家が平治の乱後、熊野にのがれ20年間潜伏していた、そのころのことではないだろうか?
御謀反の時…となれば、もっと長生きだったのかもしれない。
だんだん、わからなくなってきた。
ひょっとすると季重…雑賀党につながっていくのかな?
雑賀党鈴木氏(さいかとうすずきし)は、日本の武家のひとつ。雑賀鈴木氏とも呼ばれる。戦国時代に紀伊国名草郡十ヶ郷の平井あたりを本拠地とし、雑賀衆の頭目的存在であった。当主が代々通称とした鈴木孫一で有名。本姓は穂積氏で、藤白鈴木氏の支流を称する。
近江の平井氏とも関係していくのであろうか?
源為義の女で頼朝のおばにあたる鳥居禅尼二九代熊野別当行範の妻)は何か所の
地頭職を給されていたが、その一つ紀伊国佐野荘は尼の死後子息長詮法橋に相伝と
定められていた。ところが長詮の兄法橋行忠は母の命に背いて同荘を押領したのみなら
ず、 ...」
http://www.geocities.jp/okugesan_com/torii.htm
この法橋長詮と忠氏(初名行忠)、二名の名前が合致したということは、やはり佐野庄と鳥居氏、鳥居氏と佐野鈴木は繋がっている可能性大ではないだろうか。
…とすれば、佐野鈴木氏の祖【鈴木季重】=【熊野別当行範】=【鳥居重氏】=【佐々木行範】ということになるのではないだろうか?
季重と行範は、イコールではないかもしれないけれど近いところにいた人物と思えるのではないだろうか。
安易すぎるかもしれないので、もっと探ってみたいと思う。
鳥居家・壬生藩の上記のweb系図に拠ると【重氏 (道観。鳥居法眼。高倉宮御謀反のとき行家が方人となり、のち新宮に住す】と書かれている。
このことからも、源行家と行動を共にしていたらしい。
…とすれば、1173年に亡くなっていない行範???
行家が平治の乱後、熊野にのがれ20年間潜伏していた、そのころのことではないだろうか?
御謀反の時…となれば、もっと長生きだったのかもしれない。
だんだん、わからなくなってきた。
ひょっとすると季重…雑賀党につながっていくのかな?
雑賀党鈴木氏(さいかとうすずきし)は、日本の武家のひとつ。雑賀鈴木氏とも呼ばれる。戦国時代に紀伊国名草郡十ヶ郷の平井あたりを本拠地とし、雑賀衆の頭目的存在であった。当主が代々通称とした鈴木孫一で有名。本姓は穂積氏で、藤白鈴木氏の支流を称する。
近江の平井氏とも関係していくのであろうか?