そして、この人は長範の息であるのに、一人だけ本名に「重」が付いている。
この「重」が気になるので、可能性を探ってみた。
これは藤白鈴木に代々「重」が付いていることと無関係ではない…ような気がする。
特に、年代的には「重邦」弟か息か甥か。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%AE%97%E6%B0%B8
重邦の経歴を見ると、源為義に属しており、刑部左衛門尉であったという。弟は右兵衛少尉で、保元の乱にも参加…行範
弟だと、年齢が離れすぎの感があるため、息子とし、
重倫・季重・重善・重定を見てみると、重倫は1159年に戦死。重善は義経と甥たちを追いかけて三河国矢作で土着の人である。
季重と重定はよくわからない。
重定=重行ということが、web情報に出ていたので、ご紹介したい。
http://cache.yahoofs.jp/search/cache?c=_ixkb-YePJIJ&p=%E9%87%8D%E5%AE%9A%E3%81%AF%E5%88%9D%E3%81%AE%E5%90%8D%E3%82%92%E9%87%8D%E8%A1%8C%E3%81%A8%E3%81%84%E3%81%A3%E3%81%9F&u=akitsuri.exblog.jp%2F2401980%2F
季重は重が後ろに来ていることもあり、養子に出されたのかもしれない。
季重が後の行範で、
なぜなら、この季重は【佐野鈴木の祖】だそうで、佐野庄といえば、
紀伊
【郡名】
牟婁
【荘園名】
佐野庄
【フリガナ】
サノ
【参考市町村】
新宮市
【市町村コード】
30207
【明治村字名】
佐野・宇久井・高津気・木川・三輪崎
【初見年和暦】
貞応元年
【初見年西暦】
1222
【出典】
東鑑
【遺文番号】
【記録類】
『東鑑』貞応元,4,27
【関係文献】
無
【地名辞典】
角川地名=佐野川流域、熊野灘に面す=新宮市佐野、三輪崎付近か=貞応1地頭職、源為義女鳥居禅尼(熊野別当行範妻)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E7%99%BD%E9%88%B4%E6%9C%A8%E6%B0%8F
・・・と、行範の妻である「鳥居禅尼」の所領になっているのである。
東京大学史料編纂所DBによると、
貞応1年4月27日(12220040270) 1条
【綱文】
幕府、鳥居禅尼の所領紀伊佐野荘地頭職を禅尼一期の後、その子法橋長詮に相伝せしむ、
【区分】
大日本史料
【人名】
鳥居禅尼,長詮,鳥居禅尼子
【官職】
地頭職,佐野荘地頭職,法橋
【地名】
紀伊,佐野荘,佐野
【事項】
幕府,鳥居禅尼所領,禅尼一期,相伝
私にとっては「アヤシイ!」という感じがするのである。