【日置】に関する情報が出てきた。
測量士の役目を果たしていた日置部氏
以前近江八幡日牟禮神社を調べていた際に登場していたはず。
今度は、中原光氏と関係している。
本来は左方兼東大寺の鋳物師たちをまとめる役目だったのだが、狛近真が興福寺の楽人でもあったためか、文書では同じ興福寺の領であった日置の鋳物師たち(右方)のことにも記載している。
「所称右方鋳物師者,日置,金田,長曽禰此三ケ所也」
阿蘇品文書に中原光氏の記載がある事も、この日置荘のことがあったからかもしれない。
★日置荘は、大阪堺市
★鹿児島県日吉(ひよし)町(現・日置市)北東部に比定される豊前宇佐(うさ)神宮弥勒(みろく)寺領の荘園。〈へき〉とも読む。古代の薩摩国日置郡が分割されて成立。1197年の薩摩国図田帳に日置北(ひおきほく)郷(日置市日吉町)内として〈日置庄三十町〉がみえ,領家は弥勒寺,下司(げし)は小野太郎家綱であった。小野家綱はのちの史料に当荘の地頭としてみえる大江家綱と同一人物であろう。
★薩摩国薩摩郡日置郷(現,鹿児島県日置郡)を母体とする荘園。平安時代末期,同郷は南北2郷に分かれ,うち北郷内70町と南郷内36町は荘国両属の寄郡(よせごおり)として摂関家領島津荘に加えられたが,1187年(文治3)本領主の系譜をひき下司職をもつ平重澄はこれを島津荘の一円領として寄進しなおしたので,こののちはしばしば島津荘内日置荘(日置北庄,日置南庄)とも呼ばれるようになった。
以下の2つの論文 オススメです。
http://hist-geo.jp/img/archive/163_017.pdf
頼政の弓の先には夏の月
(平家物語の頼政の鵺退治に、弓張月のいるに任せてと言う句があります。次ぎは、源三位頼政の旧跡です)
無事に戻りました!
西行水探索、新しいツールができ、再考しています。
もう少々お待ちください。
西行の水や恋しき初夏の陽ざし