中原光氏と検索している際に、楽人とは別世界の左方兼東大寺 鋳物師惣官に補任という人物に逢った。
同一人物だろうか?
右方・左方・東大寺 のそれぞれの鋳物師がいたのだと思う。
その左方と東大寺の鋳物師たちをまとめる役目と思う。
「左方兼東大寺鋳物師惣官中原光氏惣官代職補任下文案」という文書が残っている。
興福寺領日置荘(コトバンク)に関することにも中原光氏の名が挙がっている。
「興福寺御領日置庄」に居住する鋳物師は蔵人所供御人となって雑役を免除され,「短冊」を賜って諸国七道,ことに京中市町,和泉・河内両国の市津を往復し鉄の売買を行っていたことがわかる。また同年11月日の蔵人所牒写(同前)にも「河内国丹南郡狭山郷〈異名日置〉住民本供御人番頭」と見え,年預惟宗兼宗によって日置荘鋳物師が本供御人,番頭に編成されていた。いずれも日置荘が丹南郡狭山郷のうちに立てられたことを示している。「吉記」承安4年9月8日条(大成)には,興福寺領日置荘の住人が蔵人所灯炉作手として造宮役を免除されていたことを理由に造内裏役を未進し,国司との間で紛争が起きている記事がある。
文永3年12月13日の左方兼東大寺鋳物師惣官中原光氏惣官代職補任下文案(阿蘇品文書/同前)には「所称右方鋳物師者,日置,金田,長曽禰此三ケ所也」と見え,日置荘鋳物師は蔵人所右方灯炉作手に属したことがわかる。
では、この中に見える【阿蘇品】(苗字)とは?
阿蘇品文書
建武二年(1335)、足利尊氏が鎌倉で新政府に反旗を翻すと、天皇はただちに新田義貞を大将とする討伐軍を送った。その軍中には菊池武重、阿蘇惟時・上島惟頼・阿蘇品惟定らの阿蘇一族、大友貞載らの九州勢も加わっていた。
何故この阿蘇品氏が中原光氏に関する文書を持っていたのだろうか?
阿蘇一族とは…(武家家伝 阿蘇氏より)
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/aso_k.html
阿蘇氏は、肥後国一の宮の大宮司職を古代よりつとめてきた名家である。『阿蘇宮由来記』によれば、その先祖は神武天皇の皇子神八井耳(かむやいみみ)命とされ、第二代天皇の綏靖天皇の同母兄にあたるという。その後、神八井耳命の子健磐龍(たけいわたつ)命が阿蘇に封じられ、命は阿蘇都彦と称して阿蘇に土着し、その子速瓶玉(はやみかたま)命が阿蘇国造に任ぜられ阿蘇の姓を賜ったのだという。『古事記』に見える「阿蘇君」は、阿蘇都彦のことであるといわれている。このように阿蘇氏のはじめのころは神話に彩られ、「神々の末裔」よよばれるにふさわしいものである。
阿蘇友成は謡曲の「高砂」の主人公としても知られた人物である。
大宮司職の補任は、律令下にあっては神祇官を経て太政官符が発せられ、国司によって執行されるという国家的な権威を備えたものであった。すなわち、阿蘇氏は大宮司職に任ぜられることで、その地位は国家権力を背景とするものとなったのである。また阿蘇神社の社領を村上源氏を通じて皇室に寄進し、皇室領荘園と化した阿蘇荘の荘官職をつとめた。
平氏政権が成立すると、平家は阿蘇氏を警戒するようになった。このことが、源頼朝が旗揚げしたとき、阿蘇氏が菊池氏、緒方氏らとともに頼朝に味方する要因となった。
鎌倉幕府の記録である『吾妻鏡』には、阿蘇惟泰が「南郷大宮司惟泰」と呼ばれており、このことは惟泰が武士団の棟梁として、南郷に居館を構えた領主であったことを示している。やがて、惟泰の子の惟次の代の承元元年(1207)、阿蘇氏は南郷から矢部に移り、貞応元年(1222)に岩尾城、愛藤寺城を築いて矢部が阿蘇氏の本拠となった。
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鋳物師惣官は中原光氏であったが、本当に立ち働いでいたのは鋳物師惣官代職「平友房」と思われる。
網野先生の本に『平友房を「鎮西住廻惣官代職」(「左方鋳物師惣官代官職」)に補任した。』とある。
さて、中原光氏は狛近真の猶子でもあった。
其の狛近真は、奈良興福寺に所属し,かつ宮廷勤仕の地下楽家の出身。
興福寺に所属という事と、鋳物師のいた「興福寺領日置荘」の興福寺という共通のキーワードに同一人物であった可能性を感じる。