九里 【九里】を探して三千里

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片岡氏と大中臣氏、そして中原氏と波多野氏、深栖氏と下河辺氏。

2019-08-16 | 雑記

いまだに富木常忍と、その父か兄である「蓮忍入道」が何者であったのかはわからない。
しかし【中原】であったはずなのである。

普通は、それでいいじゃないか‥‥となる。
そう、私もそれでいい!!と思いたいのだが、

中原って本当は姓で、他にいろいろな苗字を持っていたので、そこが気になってしまうのだ。

でも、ここまでわかっただけでも良かったと思う。
ある程度満足でもある。


千葉胤正の周辺もアヤシイのだが、ダイレクトではないようで、
一歩踏み込んでみると【片岡氏】が千葉氏の中の海上氏でかつ大中臣氏と近い関係なのである。

鹿島神宮の関係で、千葉氏や上総氏とも近かったのではないだろうか。


その大中臣氏と清原氏は系図には部分的に重なりがあり、
清原氏と中原氏も同様で、
中原氏と大江氏も同様である。
大江氏は橘氏を養子として入れている。
清原氏の中には斎藤氏と重なりを持った系もある。

そして、中原氏と養子縁組のある坂上氏の坂上範政が「橘是定」として署名している。
是定は名前と思っていたのだが、『ぜじょう』と読む。

是定(ぜじょう)は、氏長者が推挙した者を従五位下に叙す氏爵において、その職務を他氏の人が代行すること。王氏と橘氏に見られる。…とある。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%AF%E5%AE%9A

つまり、中原氏も橘氏と何らかの関係がありそうなのである。
中原太郎蓮忍の父経任は橘次でもある。

富木常忍が後妻として迎えた女性も元は橘貞時の妻であった。

~~~*~~~

中原久経は波多野義通妹を母として、(または養女という説もあり)秀郷流との関りがあり、
(下河辺荘の成立に尽力した源頼政。下河辺行義の兄の小山政光の小山氏とと千葉氏は繋がる。
頼政の弟に源奉政(池田)がおり、紀氏・土岐氏とのつながりもある。)

その頼政の義理の弟光重、その光重の息かもしれないと言われている「伊勢守光定」

さらにその光定の孫に義職(=光定の娘が産んだ子)がいて、深栖氏と波多野氏が繋がっているのである。

深栖光重は元は土岐氏であり、源氏であるが、波多野氏と中原氏と下河辺を通じて小山・結城・千葉氏にまでつながることとなる。

深栖氏は日本の苗字七千傑の秀郷流15では、淵名兼行ー足利成行ー郷綱(深栖氏)とある。

また、蛇足ではあるが、同じく秀郷の息である千春の系に「蒲生氏」がいて「近江蒲生氏」につながり、その中に「片岡氏」「小堀氏」がいることにも注目してみたい。

蒲生氏のことは以前にも記事にしているのだが。。。



光冏
こうげい/光冏

—明応元年(一四九二)五月一四日。文蓮社隆誉珠阿。増上寺四世。近江国蒲生郡に蒲生秀胤の家臣蒲生秀重の二男として生まれる。秀胤の猶子となった秀重は跡目相続をめぐって失脚、光冏はひとり家を出て、関東に下り増上寺三世聖観に師事し剃髪得度。性俊逸にして、内外の典籍に通じ、和歌・詩賦にもすぐれていた。駿河国(静岡県裾野市葛山)に仙年寺を開創。文明一一年(一四七九)一一月二六日、聖観のあとを受け増上寺に住し、明応元年五月一四日病により遷化した。


===*===
memo

首藤山内氏 片岡氏 五味氏 大江氏 目賀田氏 三井氏

【藤原氏長家流】

 道長の六男長家に始まるこの流は、御子左家とも呼ばれ藤原定家を代表とする代々歌道宗家として続いている。 堂上家としては、冷泉家(2家)、藤谷家、入江家の4家がある。
 
加藤清正の出自は、権中納言忠家の子正家(加藤武者)後裔と伝える。
 
下野国那須荘を本拠とする那須氏と大名の山内氏は、長家の子通家の後裔と称する。
 
また、財閥三井家は右馬助信世後裔二十代越後守高久が伊勢で越後屋を創業したことに始まる。




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