今日は、「恋と革命のインドカリーの日」。
この3つの言葉がどんな風にコラボしているのか興味がありました。
解説を読んでなるほどでしたね。
きのうは土曜日、再放送の「チコちゃんに𠮟られる」の問題は、ちょっと難しい
ものでした。
なぜおじぎをする?
なんで走行中のタイヤは止まったり逆回転に見える?
お経ってなに?
きのうは、妻が休足日の様子なので思い切ってスロージョギングで菖蒲沢
コースにしました。途中で3回給水しましたが、折り返し点で紫陽花が咲いて
いました。このコースはあちこちでウグイスの声が聞けて好きです。
往復、5,774歩でしたね。大汗になりましたね。
今朝も曇って、雨も降りそうです。
以下はネットにあった解説です。
今日は何の日 | 雑学ネタ帳 (zatsuneta.com)
1927年(昭和2年)のこの日、東京・新宿に中村屋の喫茶部(レストラン)を
開設し、日本で初めて「純印度式カリー」を売り出した株式会社中村屋が
制定。
記念日の名前は、創業者の相馬愛蔵(あいぞう)・黒光(こっこう)夫妻の娘・
俊子がインド独立運動の活動家ラス・ビハリ・ボースと恋に落ち、1918年(大正
7年)に結婚したことをきっかけに、インドカリーが誕生したことに由来する。
記念日は一般社団法人・日本記念日協会により認定・登録された。
インドカリー誕生の歴史について
ラス・ビハリ・ボース(Rash Behari Bose、1886~1945年)は、当時、イギリスの
植民地として圧政に苦しんでいた祖国インドを救おうと独立運動を行っていた。
しかし、インド総督への襲撃をきっかけに、イギリス政府から厳しい追及を受け、
1915年(大正4年)に日本に亡命した。
日本では、アジア開放運動の志士を守ろうという動きが民間で高まっていたが、
日英同盟を結んでいた日本政府は、ボースに国外退去を命じた。ボースを気の
毒に思った相馬夫妻は、アジア主義者の巨頭・頭山満の依頼もあり、政府の
意に反してボースを中村屋の敷地内にあったアトリエで匿(かくま)うこととなった。
翌1916年(大正5年)にボースは中村屋を出て隠れ家を転々とするが、その逃亡
生活で連絡役を務め、陰で支えたのが相馬夫妻の長女・俊子であった。2人は
後に結婚し、2人の子どもを授かるが、逃亡生活の心労がたたり、俊子は1925年
(大正14年)に26歳の若さで亡くなってしまった。
当時、日本に広まっていたカレーはイギリスから伝わった小麦粉を使用したもので、
祖国インドのカリーとは別のものであった。俊子の死後も中村屋と交流を深めた
ボースは本場のカリーを日本に紹介したいとの思いから、中村屋で純印度式
カリーをこの日に発売した。このカリーは中村屋の名物料理となり、「恋と革命の
味」として現在に伝わっている。