空耳 soramimi

あの日どんな日 日記風時間旅行で misako

般若寺(コスモス寺)・秋の花

2014-09-23 | 山野草

白鳳秘仏と胎内仏三尊(阿弥陀仏の台座に納入されていた小像)などが公開されていたので行ってきました。km
コスモスの咲く頃には何度も行っているのですが、秘仏の拝観は初めてでした。聖武天皇が平城京の鬼門鎮護を祈念して奉納した「霊像」と記されているそうです。









少し大きい写真はこちらです






面白い資料をいただきましたので、メモしました。

尋常小学校読本 巻九   文部省 大正7年(1918)制

第三十二 般若寺の御危難

笠置の城すでに北條の兵に攻破られ、後醍醐天皇は御いたわしくも、賊軍の手に落ち給ひぬ。笠置なる父帝の御もとへと志して、比叡山を立出て給ひし護良親王は、今や天下に身を置き給ふ所もなく、しばらく奈良の般若寺にかくれて、時の至るを待ち給へり。
かくと聞知りたる北條方の僧好専、或日の夜明方に、五百余騎の兵を率いて、不意に般若寺に押寄せたり。
折から御供の人々一人も居合はせざれば、親王、一防ぎ防ぎて、落ちのび給ふ暇もなし。
賊兵は早すき間もなく寺内に乱れ入りぬ。
親王今はのがれぬ所と思し召し、自害せんと御肌をぬがせられしが、いやいや、手立ての全くつきたる後、腹を切るとも遅からじ、かくれて見んと思ひ返し、仏殿の方を見給ふに、大般若経を入れたる三つの箱ふと御目にとまりたり。二つは蓋をしたるままなれど一つはだれが読みさしたるにや、半ば経巻を取り出して蓋もせず。これぞよきかくれ所と、蓋の明きたる箱に入り、経巻にて御身をおほひ、氷の如き刃を御腹に当て、敵若し「此処に」と言はば突立てんと、息を殺して神仏を祈りい給ふ。
其の時、賊兵ばらばらと仏殿に乱れ入り、仏壇の下、天井の上、残る所なく尋ぬれども、親王はいづくにも見え給わず。「あの蓋したる二つの箱こそあやしけれ。明けてみよ」とて、中をさがせどもおはせず。「蓋の明きたるは見るまでもなし」と言いすてて、賊兵は其のまま立去りぬ。
親王は思ひもよらず、危うき命を助かり給ひ、ただただ心地しておはしましが、賊若し立帰り来て、又尋ぬることもあらんかと思ひつき給ひ、先に賊兵がさがしたる箱のなかに入りかはりておはします。
案の如く賊兵また取って返し、「先に蓋の明きたる箱を見残したるが、心がかりなり」とて、経巻を取出しして中を改めしが、いよいよ思ひあきらめて、門外に出行きぬ。
親王は萬死に一生を得て、神仏の加護を謝し給ひ、熊野をさして落行き給ひとぞ。
                                                                   終



大正時代の教科書とはこんなことが書いてあったのかと勉強になりました。漢字は現代のものを使いました。
コメント
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