「商売ってことは百も承知だ、わたしの商売、わたしが好きで好きでしょうがない仕事だ!」
といったのは、『天国と地獄』(63)の権藤さんだった。
権藤さんの仕事に対するプライド、しかしそれでも、運転手の息子を助けるため全財産を投げ打つことの出来る大きさまで持ちあわせ、それが戸倉警部に「ものすごいひとだな、あのひとは」といわせた。
自分がやりたいと思うことに、商売であるという大前提が立ちふさがる―というのは、映画の世界ではよくあること。
映画制作の一大テーマ、と捉えることだって出来るだろう。
自分の神、スコセッシが訴えられた。
90年、遠藤周作の代表作『沈黙』の映画化権を取得し、制作会社「チェッキ・ゴーリ・グループ」と契約。
97年よりプロジェクト開始の予定であったが、スタジオとの軋轢や製作資金の問題、キャスティングの難航などにより、なかなか前に進むことが出来ないでいた。
そのあいだにスコセッシは『ディパーテッド』(2006)と『シャッターアイランド』(2009)、そして『ヒューゴ』(2011)を制作、
オスカーも取って、3D映画も成功させた―いよいよ『沈黙』がスタートするのか、、、と信者も期待したが、どういうわけかスコセッシは「またもや」べつの作品の制作をスタートさせてしまう。
現時点で75万ドルを投資したにも関わらず、なんの見返りも得られていない「チェッキ・ゴーリ・グループ」はオカンムリ、そこで、法的手段に乗り出した、、、というのが、おおよその経緯。
なにがどうなっているのかは、よく分からない。
ただ、信者特有の「甘い視点」で捉えたとしても、訴えた「チェッキ・ゴーリ・グループ」に、非はまったくないことは確かと思われ。
シナトラの伝記なども含め、スコセッシの周辺には沢山の新作情報が溢れている。
どれも観たいが、信者のほとんどは『沈黙』を最優先にしてほしい―と願っているはず。
だからこのトラブルは、かえって朗報、、、と捉えることだって出来る。
こういう流れだと、なにはなくとも『沈黙』を―という展開になるだろうから。
しかしながら。
いかにも70年代症候群的な? 思考だと自覚しながら書くが、
かつて鬼才や巨匠というものは、「いい意味での暴君」であったはず。キレッキレのころのコッポラがいい例じゃないか、
好き勝手なことやって、躁鬱を繰り返し、大金を注ぎ込む。
そうやって、怪物のような映画を生み出した。
コッポラだけでなく、マイケル・チミノやフリードキン、もちろんキューブリックだってそうだった。
しかし監督至上主義は80年代以降に通用しなくなり、いつの間にかスタジオのほうが偉くなっていた。
つまり、なにがいいたいかというと。
ケツを叩かれて動いた結果、いいものが出来上がる場合だって「もちろん」あるが、
理想をいえば、作家の「よき」リズムにあわせたほうが「より」いいものが出来上がるのではないか、、、なんて。
そこで冒頭で引用した権藤さんのことばに戻る、
「商売ってことは百も承知だ、わたしの商売、わたしが好きで好きでしょうがない仕事だ!」。
・・・ん?
テーマ、繋がってない?
どうも歯切れが悪いのは、愛ゆえと解釈してほしい。
苦労の多いキャリアのひとである。
キリストを新解釈で描いた『最後の誘惑』(88)なんて、無名のころから映画化を熱望していたわけで。
創ったら創ったで、観ていないひとたちによる「偏見と思い込み」だけのバッシングが始まったし。
『ギャング・オブ・ニューヨーク』(2001)もそうで、ただし本作に関しては、煮詰め過ぎた感もあったわけだが・・・。
スコセッシに「そんなエンディングではダメだ」などと文句をいえるのは、同業のマイケル・パウエルとロジャー・コーマン、そしてジョン・カサヴェテスくらいで、自分のような小僧がアーダコーダはいえない。
いえないが、力にはなりたい。
本コラムのタイトルは、その思いから冠したものである。
あなたが自分のリズムで、最大限の能力を発揮出来ますように・・・と願う映画小僧が、日本に居るんですよ、スコセッシさん。
でもねワガママをいえば、ほんとうは、1日でも早く『沈黙』を観たいのです。
※超絶技巧の数々
…………………………………………
本館『「はったり」で、いこうぜ!!』
前ブログのコラムを完全保存『macky’s hole』
…………………………………………
明日のコラムは・・・
『初体験 リッジモント・ハイ(14)』
といったのは、『天国と地獄』(63)の権藤さんだった。
権藤さんの仕事に対するプライド、しかしそれでも、運転手の息子を助けるため全財産を投げ打つことの出来る大きさまで持ちあわせ、それが戸倉警部に「ものすごいひとだな、あのひとは」といわせた。
自分がやりたいと思うことに、商売であるという大前提が立ちふさがる―というのは、映画の世界ではよくあること。
映画制作の一大テーマ、と捉えることだって出来るだろう。
自分の神、スコセッシが訴えられた。
90年、遠藤周作の代表作『沈黙』の映画化権を取得し、制作会社「チェッキ・ゴーリ・グループ」と契約。
97年よりプロジェクト開始の予定であったが、スタジオとの軋轢や製作資金の問題、キャスティングの難航などにより、なかなか前に進むことが出来ないでいた。
そのあいだにスコセッシは『ディパーテッド』(2006)と『シャッターアイランド』(2009)、そして『ヒューゴ』(2011)を制作、
オスカーも取って、3D映画も成功させた―いよいよ『沈黙』がスタートするのか、、、と信者も期待したが、どういうわけかスコセッシは「またもや」べつの作品の制作をスタートさせてしまう。
現時点で75万ドルを投資したにも関わらず、なんの見返りも得られていない「チェッキ・ゴーリ・グループ」はオカンムリ、そこで、法的手段に乗り出した、、、というのが、おおよその経緯。
なにがどうなっているのかは、よく分からない。
ただ、信者特有の「甘い視点」で捉えたとしても、訴えた「チェッキ・ゴーリ・グループ」に、非はまったくないことは確かと思われ。
シナトラの伝記なども含め、スコセッシの周辺には沢山の新作情報が溢れている。
どれも観たいが、信者のほとんどは『沈黙』を最優先にしてほしい―と願っているはず。
だからこのトラブルは、かえって朗報、、、と捉えることだって出来る。
こういう流れだと、なにはなくとも『沈黙』を―という展開になるだろうから。
しかしながら。
いかにも70年代症候群的な? 思考だと自覚しながら書くが、
かつて鬼才や巨匠というものは、「いい意味での暴君」であったはず。キレッキレのころのコッポラがいい例じゃないか、
好き勝手なことやって、躁鬱を繰り返し、大金を注ぎ込む。
そうやって、怪物のような映画を生み出した。
コッポラだけでなく、マイケル・チミノやフリードキン、もちろんキューブリックだってそうだった。
しかし監督至上主義は80年代以降に通用しなくなり、いつの間にかスタジオのほうが偉くなっていた。
つまり、なにがいいたいかというと。
ケツを叩かれて動いた結果、いいものが出来上がる場合だって「もちろん」あるが、
理想をいえば、作家の「よき」リズムにあわせたほうが「より」いいものが出来上がるのではないか、、、なんて。
そこで冒頭で引用した権藤さんのことばに戻る、
「商売ってことは百も承知だ、わたしの商売、わたしが好きで好きでしょうがない仕事だ!」。
・・・ん?
テーマ、繋がってない?
どうも歯切れが悪いのは、愛ゆえと解釈してほしい。
苦労の多いキャリアのひとである。
キリストを新解釈で描いた『最後の誘惑』(88)なんて、無名のころから映画化を熱望していたわけで。
創ったら創ったで、観ていないひとたちによる「偏見と思い込み」だけのバッシングが始まったし。
『ギャング・オブ・ニューヨーク』(2001)もそうで、ただし本作に関しては、煮詰め過ぎた感もあったわけだが・・・。
スコセッシに「そんなエンディングではダメだ」などと文句をいえるのは、同業のマイケル・パウエルとロジャー・コーマン、そしてジョン・カサヴェテスくらいで、自分のような小僧がアーダコーダはいえない。
いえないが、力にはなりたい。
本コラムのタイトルは、その思いから冠したものである。
あなたが自分のリズムで、最大限の能力を発揮出来ますように・・・と願う映画小僧が、日本に居るんですよ、スコセッシさん。
でもねワガママをいえば、ほんとうは、1日でも早く『沈黙』を観たいのです。
※超絶技巧の数々
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本館『「はったり」で、いこうぜ!!』
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明日のコラムは・・・
『初体験 リッジモント・ハイ(14)』