第14部「今村昌平の物語」~第2章~
前回までのあらすじ
「日活には束縛がまったくなく、たいへん驚いた。松竹は、束縛だらけだった」(今村昌平)
「地獄も極楽もあるもんけぇ。俺はまだまだ生きるんでぇ」(『幕末太陽伝』の主人公、佐平次の台詞)
…………………………………………
その作風からは意外な感じも受けるが、イマヘイに映画への扉を開かせたのは黒澤だった。
早稲田の学生だったイマヘイは『酔いどれ天使』(48)のエネルギッシュな演出と詩情に感銘を受け、学んでいた演劇を捨て、映画の世界で生きていこうと決意する。
しかし黒澤が籍を置く東宝では当時、助監督を採用していなかった。
大学を卒業したイマヘイが選んだのは、松竹。
すぐに頭角を現したイマヘイ青年は小津組で映画術を学び、名作『東京物語』(53)ではフォースの助監督を担当している。
しかし。
初の助監督公募、しかも「超」難関を突破しての入社であったが、冒頭のことばのとおり、束縛ばかりでひじょうに息苦しい思いをしたという。
せめて初監督作品までは・・・と我慢しなかったところが、イマヘイらしいといえばらしいのか。
54年、日活に移籍。
イマヘイのあとを追う形で(松竹在籍の)川島雄三も日活に移籍、夭折の奇人変人天才? といわれた川島組のもとで、映画の可能性を学び、哲学していくこととなった。
…………………………………………
川島の代表作といえば、『幕末太陽伝』(57)。
落語『居残り佐平次』や『品川心中』から材を取った乾いたコメディで、川島との共同執筆という形でイマヘイも脚本に参加している。
『幕末太陽伝』で最も有名なエピソードは、なんといっても「実現しなかった」ラストシーンだろう。
結核を患っている(と思われる)佐平次(=フランキー堺)が墓場のセットを通り抜け、
さらにセットの扉を開き、現代の品川を走る―つまり時代劇を積極的に否定することによって生まれるダイナミズムを意図したものだったが、現場のスタッフやキャストからの猛反対を受け、結局は実現しなかった。
この作品の撮影を担当していたカメラマン高村倉太郎は、筆者が映画を学んだ「にっかつ芸術学院」で撮影概論を担当していた講師であった。
曰く「過激なことをいう監督だったけど、わたしは撮ってくれと頼まれたら、そのシーンを撮ったと思う」
つまり撮影に臨む前に、この過激なアイデアはNGにされたということ。
イマヘイは、どうだったのか。
ここはイマヘイ組ではなく、あくまでも川島組。だからその決定に従った。
ただ川島の「アナーキーな」野心に共感していたことは、のちの監督作で明らかとなる。
67年、『人間蒸発』の発表。
失踪した婚約者を探す女性のドキュメンタリー「風」映画であり、なぜ「風」かというと、ラストシーンが「セットのなかの撮影」であることを明かす創りだったからである。
ドキュメンタリーと思わせておいて、じつはツクリゴト―いまでいう、手のこんだ擬似ドキュメンタリーということか。
ここにイマヘイのヒネクレ気質というものが集約されていて、だから嫌いなひとは大嫌いであろうし、好きなひとは大好きになるのである。
…………………………………………
川島組で助監督を沢山経験―55年の『愛のお荷物』、56年の『洲崎パラダイス 赤信号』など―したのちの58年、『盗まれた欲情』で監督デビューを飾る。
同年の『果しなき欲望』もそうだが、「欲」というタイトルがこれほどまでに「しっくりくる」監督も居ない。
小津に「うじ虫ばかり、、、」と批判されるのはこのころで、そこで発奮して生まれたのが61年の『豚と軍艦』である。
米軍基地払い下げの残飯で豚を飼うことによって一攫千金を狙う「うじ虫」のようなヤクザたち―しかし男たちは悉く自滅し、ヒロイン吉村実子だけが(男たちに蹂躪されながらも)自立していく・・・。
滑稽で、おぞましく、それでいて笑いが止まらない。
こうして、重喜劇は誕生した。
…………………………………………
※そう、ATGとの共同作品だったのだ
つづく。
次回は、9月上旬を予定。
…………………………………………
本シリーズでは、スコセッシのほか、デヴィッド・リンチ、スタンリー・キューブリック、ブライアン・デ・パルマ、塚本晋也など「怒りを原動力にして」映画表現を展開する格闘系映画監督の評伝をお送りします。
月1度の更新ですが、末永くお付き合いください。
参考文献は、監督の交代時にまとめて掲載します。
…………………………………………
本館『「はったり」で、いこうぜ!!』
前ブログのコラムを完全保存『macky’s hole』
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明日のコラムは・・・
『汗かっきかきで選出してみよう』
前回までのあらすじ
「日活には束縛がまったくなく、たいへん驚いた。松竹は、束縛だらけだった」(今村昌平)
「地獄も極楽もあるもんけぇ。俺はまだまだ生きるんでぇ」(『幕末太陽伝』の主人公、佐平次の台詞)
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その作風からは意外な感じも受けるが、イマヘイに映画への扉を開かせたのは黒澤だった。
早稲田の学生だったイマヘイは『酔いどれ天使』(48)のエネルギッシュな演出と詩情に感銘を受け、学んでいた演劇を捨て、映画の世界で生きていこうと決意する。
しかし黒澤が籍を置く東宝では当時、助監督を採用していなかった。
大学を卒業したイマヘイが選んだのは、松竹。
すぐに頭角を現したイマヘイ青年は小津組で映画術を学び、名作『東京物語』(53)ではフォースの助監督を担当している。
しかし。
初の助監督公募、しかも「超」難関を突破しての入社であったが、冒頭のことばのとおり、束縛ばかりでひじょうに息苦しい思いをしたという。
せめて初監督作品までは・・・と我慢しなかったところが、イマヘイらしいといえばらしいのか。
54年、日活に移籍。
イマヘイのあとを追う形で(松竹在籍の)川島雄三も日活に移籍、夭折の奇人変人天才? といわれた川島組のもとで、映画の可能性を学び、哲学していくこととなった。
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川島の代表作といえば、『幕末太陽伝』(57)。
落語『居残り佐平次』や『品川心中』から材を取った乾いたコメディで、川島との共同執筆という形でイマヘイも脚本に参加している。
『幕末太陽伝』で最も有名なエピソードは、なんといっても「実現しなかった」ラストシーンだろう。
結核を患っている(と思われる)佐平次(=フランキー堺)が墓場のセットを通り抜け、
さらにセットの扉を開き、現代の品川を走る―つまり時代劇を積極的に否定することによって生まれるダイナミズムを意図したものだったが、現場のスタッフやキャストからの猛反対を受け、結局は実現しなかった。
この作品の撮影を担当していたカメラマン高村倉太郎は、筆者が映画を学んだ「にっかつ芸術学院」で撮影概論を担当していた講師であった。
曰く「過激なことをいう監督だったけど、わたしは撮ってくれと頼まれたら、そのシーンを撮ったと思う」
つまり撮影に臨む前に、この過激なアイデアはNGにされたということ。
イマヘイは、どうだったのか。
ここはイマヘイ組ではなく、あくまでも川島組。だからその決定に従った。
ただ川島の「アナーキーな」野心に共感していたことは、のちの監督作で明らかとなる。
67年、『人間蒸発』の発表。
失踪した婚約者を探す女性のドキュメンタリー「風」映画であり、なぜ「風」かというと、ラストシーンが「セットのなかの撮影」であることを明かす創りだったからである。
ドキュメンタリーと思わせておいて、じつはツクリゴト―いまでいう、手のこんだ擬似ドキュメンタリーということか。
ここにイマヘイのヒネクレ気質というものが集約されていて、だから嫌いなひとは大嫌いであろうし、好きなひとは大好きになるのである。
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川島組で助監督を沢山経験―55年の『愛のお荷物』、56年の『洲崎パラダイス 赤信号』など―したのちの58年、『盗まれた欲情』で監督デビューを飾る。
同年の『果しなき欲望』もそうだが、「欲」というタイトルがこれほどまでに「しっくりくる」監督も居ない。
小津に「うじ虫ばかり、、、」と批判されるのはこのころで、そこで発奮して生まれたのが61年の『豚と軍艦』である。
米軍基地払い下げの残飯で豚を飼うことによって一攫千金を狙う「うじ虫」のようなヤクザたち―しかし男たちは悉く自滅し、ヒロイン吉村実子だけが(男たちに蹂躪されながらも)自立していく・・・。
滑稽で、おぞましく、それでいて笑いが止まらない。
こうして、重喜劇は誕生した。
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※そう、ATGとの共同作品だったのだ
つづく。
次回は、9月上旬を予定。
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本シリーズでは、スコセッシのほか、デヴィッド・リンチ、スタンリー・キューブリック、ブライアン・デ・パルマ、塚本晋也など「怒りを原動力にして」映画表現を展開する格闘系映画監督の評伝をお送りします。
月1度の更新ですが、末永くお付き合いください。
参考文献は、監督の交代時にまとめて掲載します。
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明日のコラムは・・・
『汗かっきかきで選出してみよう』