WOWOWで山田洋次の『息子』(91)が放送されていて、久し振りにこの作品をじっくり鑑賞してみた。
その実力は認めざるを得ないものの、なんとなく好きになれない―というのが、山田洋次に対する個人的な感情なのだが、じつをいうと『息子』という映画はスクリーンで30回以上観ている。
観客として30回も入場料を払った?
うんにゃ。
このころ自分は高校生で、地元の映画館で映写技師のアルバイトをしていたのだ。
映写すること以外に、映写技師ってやることあるのか?
あるよ、あるある。
沢山はないが、ないことはない。
フィルムに「ずれ」「ぼけ」がないか、スクリーンをチェックするのである。
まぁそれくらいなのだが、結果、好きでもない映画でも繰り返し触れることになる。
だから嫌いな『稲村ジェーン』(90)のことを「より」嫌いになったというわけで、
そのなかの一本、『息子』は好きでも嫌いでもなかった。
どちらかというと、好きかもしれない。
永瀬正敏が好演していたし。
それに、和久井映見も可憐だったし。
(先日亡くなった)三國連太郎も、さすがの存在感だったし。
だから30回の鑑賞でも、苦と感じることはなかった。
岩手の山奥で暮らす父親と、東京でフリーターを続ける息子とのドラマ・・・って、そうか、いま思えば山田監督は最近作である『東京家族』のような構造を、20年以上も前から撮りたかったんだなぁ、、、なんて。
『息子』を観終えて、20年前の自身を思い出す自分。
自身というか、アルバイト先の映画館『清流』のことを。
場末の劇場だが、A館とB館のふたつを構え、それぞれの座席数は300前後となかなかの大きさだった。
自分はこの劇場で成龍やスピルバーグの映画をはしごして、現在のような映画小僧になった。
80年代といえば日本映画斜陽期の「ど」真ん中、それを生き延びたというのに、いや、生き延びたがゆえに瀕死の状態となったのか、わが『清流』は90年代で息を引き取ることになる。
自分がアルバイトをしていたのは、そんな数々の傷が散見される直前のことであった。
脚を引きずって歩く支配人・新名さんは、ハリウッド大作しか入らない現状を嘆いていた。
そんなビッグバジェットでも、最初の2週間程度しか大入りにはならない。
映画が悪いのか。
それとも、この劇場が悪いのか。
新名さんはその原因は後者にあるとし、劇場を大胆に改造することに決めた。
まず、カップルシート―ふたりがけソファのような座席―を設置させた。
当然、、、といったらいいのか、不発に終わる。
落ち込む新名さんのもとに送られてきたのが、『息子』のプレスシートだった。
プレスシートとは簡単にいえば、業界内に配布されるプログラムのことである。
そのなかの「物語」を読んだ新名さんは「これだ!」と閃き、次の一手を打った。
『息子』で和久井映見が演じるのは、聴覚障害を持つ女子である。
身障者およびその家族の入場料を無料にする―ということを、公開1週間前に開催された特別試写会の場で、高らかに宣言する新名さん。
劇場は関係者で埋まっていたが、拍手はまばらだった。
・・・って、そういえば自分、このとき拍手をしなかった。ごめんなさい、新名さん。
「そういうことに、積極的な映画館」を売りにしたかったのかもしれない、打算があろうがなかろうが、いいことはいいことである。
しかし効果は薄く、『息子』はさほど動員数を伸ばすことが出来なかった。
「―なぁ牧野、これいい映画だよな?」
「えぇ、そう思います」
「山田洋次って、人気高いんだよな?」
「そうですよ、自分は、あんまり・・・ですけれど」
「なにをやれば、当たるのかなぁ」
「・・・」
「なにをすれば、当たるのかなぁ」
「・・・」
「設備も悪くないと思うんだよ」
「えぇ」
「映画そのもののレベルが落ちているわけでもない」
「それは、もちろんそうです」
「俺はさ、レンタルビデオの所為にしたくないわけよ」
「・・・はい」
「家で見るのは“映画もどき”、ここで観るものこそ、ほんとうの映画だから」
「・・・はい」
高校3年のころ―赤字が続く『清流』は、とうとうアルバイトの給料を一括で支給することが出来なくなっていた。
「牧野、悪いけど、今月分の残り、来月に出すから」
「イヤです」なんていえるわけがない、
自分が「上京の準備」を理由にアルバイトを辞すのは、その数週間後のことだった。
それがほんとうの理由でないことは、たぶん新名さんも分かっていたにちがいない。
92年3月、自分は上京した。
そして96年―群馬県が出資した小栗康平の『眠る男』を上映した数ヵ月後に、『清流』はひっそりと店じまいをした。
太田市にシネコンが誕生するのは、それからまもなくのことである。
どこからかシネコン建設の話を聞き、「もう限界だ・・・」と思ったのかもしれない。
真相は分からぬが、その最期に立ち会えなかったことが悔やまれる。
『息子』からだいぶ離れたが、一本の映画からこれだけのエピソードが思い出され、あぁ世の中って動き続けているんだなぁ、自分も生きているんだなぁ、、、っていう当たり前のことを思う。
しょっちゅう話題にするトラビスやサリエリ、権藤だけが自分の血と肉になったわけじゃない―そんなことに気づかされ、
当時はこころ動かされなかった映画も、機会があれば観返すべきなのかもしれないなぁ、、、と思ったのだった。
…………………………………………
本館『「はったり」で、いこうぜ!!』
前ブログのコラムを完全保存『macky’s hole』
…………………………………………
明日のコラムは・・・
『にっぽん男優列伝(189)真田広之』
その実力は認めざるを得ないものの、なんとなく好きになれない―というのが、山田洋次に対する個人的な感情なのだが、じつをいうと『息子』という映画はスクリーンで30回以上観ている。
観客として30回も入場料を払った?
うんにゃ。
このころ自分は高校生で、地元の映画館で映写技師のアルバイトをしていたのだ。
映写すること以外に、映写技師ってやることあるのか?
あるよ、あるある。
沢山はないが、ないことはない。
フィルムに「ずれ」「ぼけ」がないか、スクリーンをチェックするのである。
まぁそれくらいなのだが、結果、好きでもない映画でも繰り返し触れることになる。
だから嫌いな『稲村ジェーン』(90)のことを「より」嫌いになったというわけで、
そのなかの一本、『息子』は好きでも嫌いでもなかった。
どちらかというと、好きかもしれない。
永瀬正敏が好演していたし。
それに、和久井映見も可憐だったし。
(先日亡くなった)三國連太郎も、さすがの存在感だったし。
だから30回の鑑賞でも、苦と感じることはなかった。
岩手の山奥で暮らす父親と、東京でフリーターを続ける息子とのドラマ・・・って、そうか、いま思えば山田監督は最近作である『東京家族』のような構造を、20年以上も前から撮りたかったんだなぁ、、、なんて。
『息子』を観終えて、20年前の自身を思い出す自分。
自身というか、アルバイト先の映画館『清流』のことを。
場末の劇場だが、A館とB館のふたつを構え、それぞれの座席数は300前後となかなかの大きさだった。
自分はこの劇場で成龍やスピルバーグの映画をはしごして、現在のような映画小僧になった。
80年代といえば日本映画斜陽期の「ど」真ん中、それを生き延びたというのに、いや、生き延びたがゆえに瀕死の状態となったのか、わが『清流』は90年代で息を引き取ることになる。
自分がアルバイトをしていたのは、そんな数々の傷が散見される直前のことであった。
脚を引きずって歩く支配人・新名さんは、ハリウッド大作しか入らない現状を嘆いていた。
そんなビッグバジェットでも、最初の2週間程度しか大入りにはならない。
映画が悪いのか。
それとも、この劇場が悪いのか。
新名さんはその原因は後者にあるとし、劇場を大胆に改造することに決めた。
まず、カップルシート―ふたりがけソファのような座席―を設置させた。
当然、、、といったらいいのか、不発に終わる。
落ち込む新名さんのもとに送られてきたのが、『息子』のプレスシートだった。
プレスシートとは簡単にいえば、業界内に配布されるプログラムのことである。
そのなかの「物語」を読んだ新名さんは「これだ!」と閃き、次の一手を打った。
『息子』で和久井映見が演じるのは、聴覚障害を持つ女子である。
身障者およびその家族の入場料を無料にする―ということを、公開1週間前に開催された特別試写会の場で、高らかに宣言する新名さん。
劇場は関係者で埋まっていたが、拍手はまばらだった。
・・・って、そういえば自分、このとき拍手をしなかった。ごめんなさい、新名さん。
「そういうことに、積極的な映画館」を売りにしたかったのかもしれない、打算があろうがなかろうが、いいことはいいことである。
しかし効果は薄く、『息子』はさほど動員数を伸ばすことが出来なかった。
「―なぁ牧野、これいい映画だよな?」
「えぇ、そう思います」
「山田洋次って、人気高いんだよな?」
「そうですよ、自分は、あんまり・・・ですけれど」
「なにをやれば、当たるのかなぁ」
「・・・」
「なにをすれば、当たるのかなぁ」
「・・・」
「設備も悪くないと思うんだよ」
「えぇ」
「映画そのもののレベルが落ちているわけでもない」
「それは、もちろんそうです」
「俺はさ、レンタルビデオの所為にしたくないわけよ」
「・・・はい」
「家で見るのは“映画もどき”、ここで観るものこそ、ほんとうの映画だから」
「・・・はい」
高校3年のころ―赤字が続く『清流』は、とうとうアルバイトの給料を一括で支給することが出来なくなっていた。
「牧野、悪いけど、今月分の残り、来月に出すから」
「イヤです」なんていえるわけがない、
自分が「上京の準備」を理由にアルバイトを辞すのは、その数週間後のことだった。
それがほんとうの理由でないことは、たぶん新名さんも分かっていたにちがいない。
92年3月、自分は上京した。
そして96年―群馬県が出資した小栗康平の『眠る男』を上映した数ヵ月後に、『清流』はひっそりと店じまいをした。
太田市にシネコンが誕生するのは、それからまもなくのことである。
どこからかシネコン建設の話を聞き、「もう限界だ・・・」と思ったのかもしれない。
真相は分からぬが、その最期に立ち会えなかったことが悔やまれる。
『息子』からだいぶ離れたが、一本の映画からこれだけのエピソードが思い出され、あぁ世の中って動き続けているんだなぁ、自分も生きているんだなぁ、、、っていう当たり前のことを思う。
しょっちゅう話題にするトラビスやサリエリ、権藤だけが自分の血と肉になったわけじゃない―そんなことに気づかされ、
当時はこころ動かされなかった映画も、機会があれば観返すべきなのかもしれないなぁ、、、と思ったのだった。
…………………………………………
本館『「はったり」で、いこうぜ!!』
前ブログのコラムを完全保存『macky’s hole』
…………………………………………
明日のコラムは・・・
『にっぽん男優列伝(189)真田広之』