~北野武の巻~
第一夜:北野武のキャリアを我流紹介
第二夜:北野武への手紙
きょうは、その第一夜。
あまりにも濃密なキャリアを送っているひとなので、かなり端折ってまとめてみよう。
本名は北野武、芸名はビートたけし。
文化人としては前者、そのほかの場合に後者という風に名前を使い分けている。
20歳を過ぎたころに芸人を目指し始め、25歳でストリップ劇場『フランス座』のエレベーターボーイに。
幕間コントの芸としてタップダンスを習得、
やがて兼子二郎(のちのビートきよし)と出会い、ツービートを結成する。
とはいえすぐに売れたわけではなかった。
先鋭化していくギャグ―「寝る前にちゃんと絞めよう親の首」―は好き嫌いが分かれ、漫才ブームが訪れなかったら、北野武もここまでの存在になっていなかったかもしれない。
漫才ブームは文字どおり一過性のものであり、期間としては80年から82年あたりでわずか2年ほどのことだった。
スターになったはずの芸人のなかにも消えていったものは多く、相方のきよしも生き残れなかった(とされている)。
生き残ったたけしは黄金期を迎え、『オレたちひょうきん族』(フジテレビ)や『スーパージョッキー』『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』(日本テレビ)などの高視聴率バラエティをいくつも放ち、
テレビでみせる芸をさらに先鋭化させたラジオ番組『ビートたけしのオールナイトニッポン』(ニッポン放送)で信者を生んだ。
そんな信者たちのトップ(?)が、のちの「たけし軍団」を構成するメンバーだった。
86年12月9日―。
有名人とプライバシーの問題を突きつけることになった「フライデー襲撃事件」を起こす。
我々はそんな風な視点で捉えたが、たけし本人は身内を守りたかっただけだったのだろう。
ただ「軍団を連れていくべきではなかった」と後悔のことばも残している。
(このあたりをふまえて『HANA-BI』(98)を観ると、とても興味深い。=「一般のひとは、自分の周囲のことだけで精一杯なんだよ」)
89年、『その男、凶暴につき』で映画監督デビューを果たす。
深作欣二が降板したことによる「代打」ではあったものの、「その他大勢」の異業種監督とはちがい、映画的センスがずば抜けていることは誰の目にも明らかだった。
以降、コンスタントに映画を撮るものの興行的には惨敗、批評的には「まあまあ」だったが、海外の一部識者から高評価を受けるようになる。
94年、バイク事故により顔面に後遺症が残るほどの怪我を負う。
皮肉なことに北野映画は、事故復帰作(=96年の『キッズ・リターン』)から興行的な成功をおさめるようになった。
98年、『HANA-BI』でベネチア映画祭の金獅子賞を受賞。
現在72歳、
去年、自らが立ち上げたオフィス北野からの独立により「ちょっとした? 騒動」が起こる。
軍団たちの今後も気がかりではあるものの、映画ファンとしてはそれ以上に、新作の制作や配給がどうなるのか心配なのであった。
ではあすの第二夜で、北野武への手紙を展開してみよう。
※バックコーラスのおねいさんたちも、あぁ時代だなぁって思う
…………………………………………
明日のコラムは・・・
『『拝啓、〇〇様』(14)』
第一夜:北野武のキャリアを我流紹介
第二夜:北野武への手紙
きょうは、その第一夜。
あまりにも濃密なキャリアを送っているひとなので、かなり端折ってまとめてみよう。
本名は北野武、芸名はビートたけし。
文化人としては前者、そのほかの場合に後者という風に名前を使い分けている。
20歳を過ぎたころに芸人を目指し始め、25歳でストリップ劇場『フランス座』のエレベーターボーイに。
幕間コントの芸としてタップダンスを習得、
やがて兼子二郎(のちのビートきよし)と出会い、ツービートを結成する。
とはいえすぐに売れたわけではなかった。
先鋭化していくギャグ―「寝る前にちゃんと絞めよう親の首」―は好き嫌いが分かれ、漫才ブームが訪れなかったら、北野武もここまでの存在になっていなかったかもしれない。
漫才ブームは文字どおり一過性のものであり、期間としては80年から82年あたりでわずか2年ほどのことだった。
スターになったはずの芸人のなかにも消えていったものは多く、相方のきよしも生き残れなかった(とされている)。
生き残ったたけしは黄金期を迎え、『オレたちひょうきん族』(フジテレビ)や『スーパージョッキー』『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』(日本テレビ)などの高視聴率バラエティをいくつも放ち、
テレビでみせる芸をさらに先鋭化させたラジオ番組『ビートたけしのオールナイトニッポン』(ニッポン放送)で信者を生んだ。
そんな信者たちのトップ(?)が、のちの「たけし軍団」を構成するメンバーだった。
86年12月9日―。
有名人とプライバシーの問題を突きつけることになった「フライデー襲撃事件」を起こす。
我々はそんな風な視点で捉えたが、たけし本人は身内を守りたかっただけだったのだろう。
ただ「軍団を連れていくべきではなかった」と後悔のことばも残している。
(このあたりをふまえて『HANA-BI』(98)を観ると、とても興味深い。=「一般のひとは、自分の周囲のことだけで精一杯なんだよ」)
89年、『その男、凶暴につき』で映画監督デビューを果たす。
深作欣二が降板したことによる「代打」ではあったものの、「その他大勢」の異業種監督とはちがい、映画的センスがずば抜けていることは誰の目にも明らかだった。
以降、コンスタントに映画を撮るものの興行的には惨敗、批評的には「まあまあ」だったが、海外の一部識者から高評価を受けるようになる。
94年、バイク事故により顔面に後遺症が残るほどの怪我を負う。
皮肉なことに北野映画は、事故復帰作(=96年の『キッズ・リターン』)から興行的な成功をおさめるようになった。
98年、『HANA-BI』でベネチア映画祭の金獅子賞を受賞。
現在72歳、
去年、自らが立ち上げたオフィス北野からの独立により「ちょっとした? 騒動」が起こる。
軍団たちの今後も気がかりではあるものの、映画ファンとしてはそれ以上に、新作の制作や配給がどうなるのか心配なのであった。
ではあすの第二夜で、北野武への手紙を展開してみよう。
※バックコーラスのおねいさんたちも、あぁ時代だなぁって思う
…………………………………………
明日のコラムは・・・
『『拝啓、〇〇様』(14)』