ロシアのおばあさんの復活祭の思い出
春の最初の兆しは「ヒバリ」――干しブドウの眼をつけた、鳥の形をしたおいしい白パン――でした。わたしたちのところではそれを「四〇人の殉教者」の日、三月九日に焼きました。その時期はまだ寒いとはいえ、春はひそかに近づいています。
もっともっと面白かったのは、三月二五日の聖母福音祭に小鳥を外に放す習慣でした。世界の救世主がすぐに誕生されるとの報せが世界じゅうに喜びをもたらすしるしとして、これは行われました。わたしたちは乳母と鳥の市に行きました。そこでは通りにずっと商い人が座り、かれらの周辺には小鳥、この地方のどうということのない灰色の小鳥を入れた小さな籠がたくさん置かれていました。
わたしたちは小鳥を長いこと選んで、「放す」のにどれを買ったらいいか、いい争いました。「弱々しくて小さくて、この哀れなのを選んだら、きっとスズメにつつき殺されちゃう。」「とっても元気に飛びはねている、これがいいよ。」
やっと選び終わると、わたしたちは籠を手に街の公園に向かいました。ある年のことをわたしは特によく覚えています。わたしたちが籠を開けたのに、小鳥は飛び出さず、羽を逆立てて座っていて、動かないのです。わたしたちはそれを見ても、どうしたらいいか分かりませんでした。すると不意にどこか木の上で、小鳥が大きな声でさえずりました。わたしたちの囚われの鳥は羽ばたきをすると、開いた戸口に注意ぶかくぴょんぴょんと近づきました。ふたたび、木の上で小鳥がさえずると、灰色ちゃんはさっと翼を振り、矢のように、まっすぐ大木の天辺へと飛び立ったのです。その飛翔には大きな喜びがあって、天使が処女マリアにもたらした奇跡の報せを祝うことのすばらしさを小さなわたしでさえも理解したほどです。
わたしの記憶のなかでは、鳥の市と猫柳の市が結びついています。もちろん、この市ではそれをもって教会の終夜祷に行くために、束にくくった猫柳を買いました。その束には紙の天使の飾りが結びつけてあって、その天使は「猫柳のケルビム」と呼ばれていました。わたしたちは、もちろん、猫柳の枝で遊び、遊びのための唱えごともありました。
白い猫柳、仕事でたたく、
赤い猫柳、用もなくたたく、
猫柳、ぴしり、泣くまでたたく。
猫柳以外に市では、復活祭のためのあらゆるものが売られていました。クリーチ(復活際に焼く円筒形の甘いパン)とパースハ(カッテージチーズを主な材料とするピラミッド型のレアチーズケーキ)に飾るための紙の花、切り抜いた飾りをつけた木のパースハ用の木型、わたしたちにとってもっとも楽しみなのは、ほかの時期にはどこにも売っていないおもちゃでした。そうしたおもちゃのひとつは「アメリカ住民」と呼ばれていました。それはガラス製の、両端を閉じた筒で、その中を小さなガラスの「住民」がぷかぷか泳いでいるのです。筒の下の方にはうすいゴムを張った穴がありました。ゴムを押すと、「住民」は筒の底に落ちてきて、放すと上がっていくのです。
止めピンのついた小さなおもちゃのおサルさんも売られていて、それは外套とか帽子につけることができました。緑、青、黄色、羽毛やビーズのついたもの、手に熊手を持っているもの――たくさんのおサルさんをわたしたちはコレクションしていました。
さて、夜になるとわたしたちは猫柳の束を手に教会へ行き、勤行の間灯したロウソクを持って立っていました。猫柳を清める時がくると、神父さんは教会の中をずっと回り、みな猫柳とロウソクを高くかかげ、聖水のしぶきを受けようとするのでした。祈祷者たちの頭上にそれはそれはたくさんの猫柳が持ち上げられるのでした。
受難週間の木曜日(復活大祭前の木曜日)にわたしたち子どもは卵をタマネギの皮や細かくちぎった色物の布の端切れ、店で買った特別な「マーブル模様の」小さな紙で染めました。でも、一番見事なのは筆で色づけした卵です。よごれた手をアンモニア水で洗うと、強烈な臭いで目から涙が出るほどでしたが、指には結局いろんな色がついたままでした。そのいろんな色のついた指でわたしたちは教会へ行って、ロウソクと小さな本を握り、本に従って読み上げられる福音書をたどり、主がいかに苦しみ、召されたかのお話を心から理解したのでした。
そのあと、風で消えないようにロウソクの火を紙と手で守りながら、家に持ち帰りました。それで家の灯明に火をともし、扉の上の十字架を煤けさせるのでした。今こそ復活大祭までいくらも待たなくてもいい時がきたのです。
わたしと弟がまだ小さかったころ、わたしたちは教会の夜の勤行に連れて行ってもらえませんでした。わたしと弟は自分たちで一連の儀式を家でとり行い、そのことを大人たちは何も知らないと思っていました。
わたしたちは家の料理女に「自分用の」小さなクリーチとパースハを頼んで手に入れ、自分で色つけした卵のうちのいくつかも取っておきました。子供部屋に自分たち用の食卓を用意し、ベッドに入るとき、目覚時計を夜中の一二時一〇分前にセットしておきます。ベッドからとび起き、換気用の小窓を開け、寒さに身をすくめながら、鐘の最初の音を待ち構えていた様子をよく覚えています。ついに高らかに鳴り響きます。ゴーン、ゴーン、ゴーン…… わたしと弟は灯明をともしてあるイコンの前に立ち、大きな声で「キリストは死者より復活し給えり!」を歌い、そのあと三度キスを交わし、自分たちのご馳走の席に着くのでした。
さて、次の日には美しく飾られた復活祭の大きな食卓が設(しつら)えられ、親戚じゅうが集まり、三度ずつキスを交し合い、おたがいに卵を交換します。木製、チョコレートや貴石のもの、小さな美しい卵――銀、金、エナメル塗り、女の子が鎖につけたり、ネックレスとして首にかける輪のついたもの――もありました。
おそらく、わたしたちは「最高の祭日」の意味を理解するにはまだ幼すぎたでしょうが、その喜びは感じたのでした。(『最高の祭日』モスクワ、1993)
以前に復活祭のお話を訳したことを思い出して、探したら
見つかったので、のせておきます。
革命前、良家の子どもたちの復活祭風景です。卵のことも出てきますね。
絵はペテルブルグの画家ナターリア・チャルーシナさん。
この4月にカット用に描いていただいたものです。
ケーキはクリーチ。母も昨日、食べました~。