まいぱん日記

身近なあれこれ、植物のことなど

思い出すこと 3 三鷹のおじい (小林昇) 

2020年05月27日 | 「くるくるしんぶん」から

いつの頃か、わたしには商売のことなどよくわからない時でしたが、家の船で荒川堤の花見や両国の川開きに行ったことがありました。幕を張って飾りをつけた船にわたしも近所のたくさんの人と乗り込みました。船が隅田川に出ると、蒸気船で網をかけて引っ張っていくのでしたが、大人たちが船の中で酒を飲んで騒ぐのを見たり、荒川堤で酔っ払いを見たりして、すっかり嫌になって、二度と花見の船に乗らなくなりました。川開きの時は船が隅田川にぎっしりつまって、船頭がお互いにわめき、帰りはひどく遅くなってこりごりして、花火見物も二度と行きませんでした。潮干狩りに船が出たかどうか覚えていません。

小学校の三年生になった頃、わたしの生活に変化がおこりました。家から少し離れたところにある習字の塾へ姉に連れられて通うようになり、裏通りの珠算塾にもかよいはじめたのでした。下町の教養ですが、この珠算塾がわたしの子ども時代の懐かしい思い出の泉です。

習字の塾は五年生になってやめましたが、姉はつづけていました。この塾には思い出もあまりありませんが、手習いの効果があったのは確かなようです。今の天皇陛下のご婚約成立の記念であったと思いますが、小学校の習字や絵や手工などの作品展があって、わたしの習字が出品されました。その褒美に菊の紋を型どった菓子をいただいたのですが、その時も姉が附添って小学校に来て、先生にいわれた通り、わたしを写真屋につれてゆき、記念の写真をとるようにしました。家では皇室をありがたいとか、おそれおおいとかいうことを教え込む雰囲気はなかったのですが、先生の言葉を忠実に守ったようでした。新年や紀元節、天長節などの祝祭日(はたび)には国旗を掲げることが行われていましたが、お巡査(まわり)さんに叱られるから国旗を出しなさい、と家でいわれていました。

珠算塾の先生は老年に近い人でしたが、ある日、漢文を教えていたのを見ました。漢文というのをはじめて知り、その教え方を不思議に感じましたが、ここではそのことを除(はぶ)きます。大正の頃に珠算と漢文を教える先生が町の塾にいたわけで、今はこんな塾はないでしょう。この先生の印象は少ししか残っていませんが、わたしの珠算はここで暗算と一緒に磨かれました。実はこの塾の家主の親戚が鮎沢健ちゃんという立教大学の学生でした。塾がはじまる前に行くと、健ちゃんがわたし達にいろいろなことを教えてくれたのでした。トランプ遊び、催眠術、手相を見ることなど、わたしたちの知らないものばかりでした。そしてまたわたしたち数人をひきつれて浅草の繁華街(さかりば)へ行く冒険を味わわせてくれたりしました。

健ちゃんはわたしの手相を見てくれたことがあります。わたしの生命線は途中で切れているから二十才(はたち)ぐらいで死ぬかもしれない、切れないでつづいていれば長(なが)生(い)きするし、それに手相は変わるから、切れているところが自然につながることがあるというのでした。わたしはびっくりしてしまって、二十才ぐらいで死にたくないと真剣に思い、家に帰ると生命線の切れているところを縫針でささったとげをとり出すやり方で皮膚を刺して細い線をつくって、生命線がつながるようにしました。一センチほどでしたが、血が滲んで痛かったものでした。このことは健ちゃんには内緒にしておきました。健ちゃんのいったように二十才ぐらいで死なずに、いまも元気にいきているのはあの時痛さを我慢して溝のような線をつくったからかもしれません。(第21号1980年6月7日)

健ちゃんが催眠術をかけるのを見たことがありました。健ちゃんの弟の鋭(とし)ちゃん(同級生)が簡単にかかってしまって、健ちゃんがハンケチを丸めたものを鼠といったり、いまボートに乗っているといったりすると、そのとおりに思ったようでした。どうしてだかわたしがかけられることになりました。健ちゃんは人差指を上向きに立て、これをよく見なさいといって、その指をわたしの顔に近づけたり遠ざけたり繰返して、やがて眼をつぶらせ、123の数を低い声でいいつづけたようでした。健ちゃんはわたしが催眠にかかったと思って、さっきとおなじようにハンケチを鼠と思わせようとしましたが、わたしは実はかかっていないのでした。健ちゃんはおかしいといって、わたしの両手を横に挙(あ)げさせました。わたしはだんだん手がくたびれて来ましたが、じっと我慢していました。そのうちに健ちゃんは催眠を戻そうといって、わたしの両手を下げさせ、眼を開けるようにいいました。わたしは催眠にかからないと悪いと思って、かかったふりをしたのですが、ハンケチを鼠といわれては、どうしてもそう思えなかったのでした。健ちゃんはそれに気がついて、催眠を解くことにしたのでしょう。このことも健ちゃんには黙ったままにしてしまいました。

健ちゃんがわたし達を連れて浅草に行った時は、まず永代橋まで歩き、橋際でポンポン蒸気船に乗り、隅田川を遡(さかのぼ)って吾妻(あずま)橋際で降りました。観音様にお詣りしたが、花屋敷か活動写真館に入ったか、何も覚えてなく、ただ蒸気船に乗って往復したことだけが記憶に残っています。

健ちゃんに連れられた浅草行は往復歩くこともありました。茅場町に出て鎧橋を渡り、人形町、久松町を通り、浅草橋に出ました。浅草橋までは人形町、小伝馬町を通って行ったこともありました。浅草橋を渡るともうすぐなので元気になり、厩(うまや)橋の停留所を過ぎて駒形に来ると、道路が広くなって雷門が望めたようでした。帰りには小伝馬町から本石町(ほんごくちょう)、日本橋、京橋と遠廻りをしたこともあったと思います。とにかく途中で店屋の前を通ると、きまってその店屋の奥に掛かっている柱時計をのぞきこんだものでした。あの頃は柱時計が大抵の店屋に掛かっていましたが、それも震災後には少なくなりました。わたしにとって浅草行はその往復のことばかり覚えているので、活動写真の方はまだ興味がわくほどではなかったのかもしれません。そして一緒に行ったのはだれかもはっきり覚えていないのです。

(第24号1980年6月22日)

 

健ちゃんは招魂社(靖国神社)にもつれていってくれました。馬場先門に出て、堀端に沿って行くのでしたから、わかり易く、それほど遠くありませんでした。招魂社のお祭りの時は賑やかで、ここだけでしか見たことがないおおきな小屋掛の見世物がありましたが、今は見世物がたちません。鉄砲洲神社などと違う気持で参拝したと思っていますが、境内の銅像は大村益次郎で陸軍の基礎を置いた人と教えられても私の知らなかった人なので、どうしてここに銅像が建てられたのか、わからないままでした。今の宝物遺品館の前身の遊就館を見学しましたが、その時の感銘が浮かび上がりません。

健ちゃんはわたし達に下瀬(しもせ)火薬といって、硝石、硫黄、木炭を材料として火薬を作ることも教えてくれました。わたし達はそれを用(つか)って遊ぶというより、この火薬が上手く作れるかどうかに興味があったようでした。確かカ―バイトを硝子瓶に入れて水を加え、それによって生じたアセチレン瓦斯を操作して、走る船を作ることも教えてくれましたが、これは徳ちゃん(同級生)が作ってくれました。

火薬や船とは別に飛行機作りが流行しました。染物屋の倉ちゃんが複葉の飛行機を作ってくれることになったので、玩具屋(おもちゃや)で飛行機の材料の籤(ひご)や翼に張る薄紙、二つのプロペラや何メートルかのゴムなどを買って来ました。機体と翼ができ、プロペラがついた時に少兄が部屋の中で飛ばしてプロペラを折ってしまい、倉ちゃんはせっかく作ったものを大事にしないといい出して、飛行機作りを止めてしまいました。わたしはこわれた部品を取り替えたりしてみたのですが、結局上手く出来ず、代々木の原で催された子どもの飛行機大会で失敗し、飛行機作りから遠のきました。

あの頃は大人達も飛行機の爆音がすると、家から外へ飛び出して、空を見上げたものでした。アメリカ人のナイルス・スミスが来たり、東京の空で宙返りが見られたりして、わたし達も宙返りという言葉に馴染(なじ)んだようでした。

健ちゃんがわたし達を浅草の繁華街(さかりば)へ連れていった気持はわかりませんが、浅草行はわたしにいろいろのものを残しました。東京の地理にいくらか明るくなりましたし、繁華街(さかりば)はよくない場所とは思わず、ひとりでも行ける處となりました。しかし映画に興味を持ったのは健ちゃんに直接関係はなかったでしょう。あの頃は映画館によっては十五才未満の子どもの入場お断りという禁止令がありましたが、小学校時代の少兄の同級生であった中学生(岡村さん)がその禁止にかまわず、わたしを外国物専門の金春館(新橋よりの銀座裏)に連れて行ってくれました。それまでに見た活劇(アクション映画)とは違う、アメリカ映画に心の惹かれるものを感じました。次兄が帝劇で上映された「イントランス」を見て来て、よかった、よかったとうのを聞いたような気がします。そしてこれまでわたしも活動(活動写真館の略)といっていたのに映画という新語を用(つか)うようになったかと思います。

(第26号1980年7月10日)

 

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