平戸で見所の一つは、カトリック平戸教会(平戸ザビエル記念聖堂)と
そこからの平戸湾、平戸城の眺望です。
教会の横には十字架ならぬ古びた墓石が並ぶ広い墓所があり、
そこは平戸藩重臣の熊澤家墓所で、不思議な空間でした。
教会と寺院が重なり合うように並ぶ坂道は
西洋と東洋が混在する平戸ならではの魅力的な景観です。
坂を下りていくと瑞雲寺の門脇に「コルネリヤ供養塔」と
刻まれた石碑を見つけました。
境内にある層塔は、追放された混血児の一人コルネリヤが
オランダ商館長であった父の菩提を弔いたいという願いにより、
1682年(天和2年)に判田家が本成寺に建てた供養塔です。
今は瑞雲寺に移され保存されています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/76/62/1c90396c009260c4ed388fec0780c2ce.jpg)
コショロのジャガタラ文を前回(5月7日付)紹介しましたが、
遠い異国の地で彼女たちはどんな人生を送ったのでしょうか?
二通のジャガタラ文と「コルネリヤの塔」が平戸に残されている
コルネリアは、オランダ商館第五代館長ナイエンローデを父に
スリシヤ(洗礼名)を母に1629年(寛永6年)に生まれました。
ナイエンローデは十年間平戸に勤務し、1633年(寛永10年)に亡くなりました。
初めにトケシヨ(洗礼名)という日本婦人と結婚して一女エステルを儲け、
後にスリシヤと結婚してコルネリヤが生まれたのです。
母スリシヤはナイエンローデ死後に判田五右衛門に嫁ぎ、
コルネリヤはオランダ商館に引き取られて育ったそうです。
1639年(寛永16年)、10歳のコルネリヤは異母姉エステルとともに
バタビア(現ジャカルタ)へ追放されましたが、母は日本に残りました。
父の遺産で、コルネリヤはバタビアの孤児院でなに不自由なく育ち、
20歳頃に東インド会社の社員ピーテル・クノルと結婚しました。
十一人の子供に恵まれ、裕福に暮らしていたそうです。
しかし、平戸に残った母への想いは忘れがたく、
子を抱いた自分の木像を母の嫁ぎ先の判田家へ送ったといいます。
ジャガタラ文の一通は、夫クノル(文にはコノル)との連名で書かれていて、
判田五右衛門夫妻や乳母へ、樟脳や更紗などの布を贈っています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6c/c1/7624c5131ae35885e6c45fa635f7120d.jpg)
夫クノルの死後、コルネリヤは東インド会社社員ビターと再婚しますが、
財産を浪費され、子供たちにも次々と先立たれ、
1692年に63歳で亡くなりました。
幸せだったクノル一家を描いた一枚の絵が残されていました。
黒いドレスの美しい婦人がコルネリヤです。
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写真は、「教会と寺が並ぶ坂道」「コルネリアの塔」
「クノル一家の絵」
そこからの平戸湾、平戸城の眺望です。
教会の横には十字架ならぬ古びた墓石が並ぶ広い墓所があり、
そこは平戸藩重臣の熊澤家墓所で、不思議な空間でした。
教会と寺院が重なり合うように並ぶ坂道は
西洋と東洋が混在する平戸ならではの魅力的な景観です。
坂を下りていくと瑞雲寺の門脇に「コルネリヤ供養塔」と
刻まれた石碑を見つけました。
境内にある層塔は、追放された混血児の一人コルネリヤが
オランダ商館長であった父の菩提を弔いたいという願いにより、
1682年(天和2年)に判田家が本成寺に建てた供養塔です。
今は瑞雲寺に移され保存されています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/76/62/1c90396c009260c4ed388fec0780c2ce.jpg)
コショロのジャガタラ文を前回(5月7日付)紹介しましたが、
遠い異国の地で彼女たちはどんな人生を送ったのでしょうか?
二通のジャガタラ文と「コルネリヤの塔」が平戸に残されている
コルネリアは、オランダ商館第五代館長ナイエンローデを父に
スリシヤ(洗礼名)を母に1629年(寛永6年)に生まれました。
ナイエンローデは十年間平戸に勤務し、1633年(寛永10年)に亡くなりました。
初めにトケシヨ(洗礼名)という日本婦人と結婚して一女エステルを儲け、
後にスリシヤと結婚してコルネリヤが生まれたのです。
母スリシヤはナイエンローデ死後に判田五右衛門に嫁ぎ、
コルネリヤはオランダ商館に引き取られて育ったそうです。
1639年(寛永16年)、10歳のコルネリヤは異母姉エステルとともに
バタビア(現ジャカルタ)へ追放されましたが、母は日本に残りました。
父の遺産で、コルネリヤはバタビアの孤児院でなに不自由なく育ち、
20歳頃に東インド会社の社員ピーテル・クノルと結婚しました。
十一人の子供に恵まれ、裕福に暮らしていたそうです。
しかし、平戸に残った母への想いは忘れがたく、
子を抱いた自分の木像を母の嫁ぎ先の判田家へ送ったといいます。
ジャガタラ文の一通は、夫クノル(文にはコノル)との連名で書かれていて、
判田五右衛門夫妻や乳母へ、樟脳や更紗などの布を贈っています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6c/c1/7624c5131ae35885e6c45fa635f7120d.jpg)
夫クノルの死後、コルネリヤは東インド会社社員ビターと再婚しますが、
財産を浪費され、子供たちにも次々と先立たれ、
1692年に63歳で亡くなりました。
幸せだったクノル一家を描いた一枚の絵が残されていました。
黒いドレスの美しい婦人がコルネリヤです。
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写真は、「教会と寺が並ぶ坂道」「コルネリアの塔」
「クノル一家の絵」