ヒトリシズカのつぶやき特論

起業家などの変革を目指す方々がどう汗をかいているかを時々リポートし、季節の移ろいも時々リポートします

3月11日の大震災による東北大学の被害状況を伺いました

2011年04月23日 | 日記
 3月11日の東北関東大震災による東北大学の被害状況についてお伺いしました。東北大名誉教授の石田清仁さんが主宰する「異分野新素材研究会」に参加させていただき、大震災当日などの様子を伺いました。

 異分野新素材研究会は、東北大学のマテリアル系専攻の卒業生の方々が中心になっている研究会です。東京都千代田区の東京駅近くで開催された第31回を拝聴しました。



 大地震の当日は、東北大学の青葉山キャンパスのマテリアル系建屋(6階建て)の5階にいた石田さんは、ものすごい揺れを長時間体験されたそうです。

 棚に並べてあった資料や単行本などがすべて床に落ちたそうです。実験室でもいろいろと大きな被害が出たとのことです。







 マテリアル系建屋の構造柱に入った亀裂(きれつ)や1階の入り口部分の隆起などの画像も示されました。テレビや新聞などを通して、見慣れたはずの建屋などの損傷なども、こうして具体的に画像で見させられると、改めて被害の大きさを実感しました。

 意外だったのは、大地震によって散乱した部屋を何日もかかって元通りに整理したのに、4月7日午後11時30分ごろに起きたマグニチュード7.4の大きな余震によって、また部屋が大きく揺れて、資料などが床に散乱したそうです。この時の大きな余震によって、せっかく整理し直したものがまた散乱するなど、実はかなり被害が出たそうです。

  現在は、プレハブ内に研究用の実験装置などを設置し、実験可能なように復元させるなどの努力を続けているとのことでした。

 片平キャンパスの被害状況については、他の教員の方が報告されました。4月中旬には、片平キャンパスに植えられたサクラの木がどれも満開になったそうです。被害地の中で、何も無かったかのように、サクラは見事に開花したそうです。

 異分野新素材研究会の本来の中核となった講演では、大手電線メーカーの執行役員の方が、携帯電話機などに採用されている極細同軸ハーネス(ケーブル)の製造方法などを解説されました。この話を伺って、日本のモノづくり技術の強さの神髄を感じました。携帯電話機の液晶ディスプレー部分が多軸に回転するタイプでは、本体部分と液晶ディしプレー部分をつなくケーブルに、極細同軸ハーネスを用いています。そのケーブルの中心線体は、直径16ミクロンメートルの極細の銅合金電線を7本撚り合わせて線材とし、その周りをフッ素樹脂で絶縁し、保護しています。さらにその周りに外部導線を撚り合わせてシールド機能を与えます。この外部導線の外側に、フッ素樹脂を被覆して絶縁します。

 製品化のポイントは、ケーブルの接続部分の技(わざ)です。外部導線のフッ素樹脂のフッ素樹脂の被覆層を炭酸ガスレーザーで精密に切れ目を入れます。さらに中心線材を被覆したフッ素樹脂層をYAG(ヤグ)レーザーで切れ目を入れます。さらに、接続するためのハンダ接合が確実にできるように、導線にハンダを薄くコーティングする技術を用いています。確実に接続するために、いくつものハイテク加工技術を盛り込んでいます。この辺が日本の製造業の強さの秘密だと感じました。

近江商人発祥の地の一つになった近江八幡の八幡堀を歩きました

2011年04月22日 | 旅行
 “近江商人”の発祥の地となった滋賀県近江八幡市に残る「八幡堀」を散策しました。八幡堀は5月になると、ハナショウブ(花菖蒲)が咲き、水辺の風情を高めるそうです。このため、近江八幡は「水の里」と呼ばれています。

 八幡堀はちょうど、ソメイヨシノ(染井吉野)の花の桜吹雪が舞う時期でした。





 八幡堀の両側には、川面近くに歩道が設けられ、観光客が散策しています。



 本来は、地元の方が洗い場などに活用するために、川面近くに寄る場所だったようです。現在は、八幡堀の両側に観光客目当てのお土産屋や食事処がいくつか並んでいます。有名なお菓子屋には観光客がどんどん入っていきます

 八幡堀は、現在は観光客を集める観光資源として活用されています。時々、観光客を乗せた屋形船が通ります。

 この八幡堀は本来は、琵琶湖と八幡城下町を結ぶ海運のための運河として設けられた点が特徴です。琵琶湖に近い近江八幡に八幡堀を運河として設けたのは豊臣秀次です。豊臣秀吉の姉の長男として生まれ、後に秀吉の養子になり、関白職を引き継いだ人物です。後に、秀吉に子供の秀頼が誕生した経緯などから、秀次は謀反の疑いをかけられ、最後は自害させられます。

 この豊臣秀次が八幡城下に商人が集まる城下町を築くために、まず八幡堀という運河をつくり、海運の基盤を築きます。この近江八幡の城下町は、織田信長が本拠地として構えた安土城が近くにあります。織田信長が死去し、秀吉の天下になり、秀次が近江八幡城を担当します。この時に、秀次は信長の「楽市楽座」という市場開放策を継承します。新進気鋭の商人を城下に集め、活力を高めるためだったと思います。そのための物流手段が八幡堀を用いた海運でした。

 この結果、いわゆる近江商人が育ち、日本全国に商圏を広げていきます。近江八幡は“近江商人”発祥の地の一つだそうです。近江商人が活躍し始め、商人町が拡大していきます。現在も、商人町の面影が残っている個所がいくつかあります。



 商人町の旧商家の説明文によると、「江戸や大坂に支店を出す商店がいくつかあった」とのことでした。そして、ここで育った近江商人は、江戸や大阪ばかりでなく、北海道との交易を進め、最後は“安南”(ベトナム)や“シャム”(タイ)などまで商圏を広げほど、活躍したとのことでした。

 ほとんど予備知識無しで立ち寄った近江八幡市の八幡堀でしたが、予想以上に歴史の蓄積がある地区でした。戦国時代から徳川時代までに繰り広げられた歴史の重みを感じさせる街並みです。

 八幡堀は、琵琶湖と西の湖を結ぶ運河です。西の湖はラムサール条約に登録された湿地です。西の湖までの水路は水郷として知られています。観光屋形船によって水郷を楽しむことができるそうです。いずれ、水郷巡りによって、「近江の春の行方をおしみたい」と思いました。

 今回は、小説家の司馬遼太郎の気分をほんの少しだけ味わうことができた気になった散策でした。

京都市の御室仁和寺では、ほぼ満開の御室桜が見事でした

2011年04月21日 | 旅行
 京都市右京区の御室仁和寺(おむろにんなじ)は、遅咲きの御室桜(おむろざくら)がほぼ満開でした。京都では、御室仁和寺で満開のオムロザクラを楽しむと、「京都の花見は終わる」といわれているほど、親しまれています。仁和寺は、オムロザクラの満開の時期だけ、特別入山料を徴収しています。

 中門奥の西側に広がるオムロザクラ(御室桜)林は七部咲きと、立て札に表示されていました。しかし見た目は満開そのものでした。花が散っていないので、七部咲きと表示するのかと想像しました。里桜系のオムロザクラが約200本植えられています。



 約200本のオムロザクラの木がいっせいに開花すると、華やかな雰囲気になります。春めいた陽気の中で、オムロザクラの大ぶりの花々に包まれることは、幸せ感を感じます。オムロザクラの木は高さが2~3メートルと低くので、満開の花を目の前で見ることができます。



 これがオムロザクラの花の魅力の一つです。見上げなくて済むからです(サクラの木の高さが低い理由は、地面の下に岩盤が多くあるからという説は、最近は否定されつつあります)。

 仁和寺のオムロザクラ見物は昼間だけです。夜に、木の下にゴザを敷いて、お酒を飲むことはできません。オムロザクラ林の中は、木道が設けられ、ごく一部にお茶屋風の縁台が置かれているだけです。赤い毛氈(もうせん)が華やかです。

 オムロザクラの並木のすぐ上側に、観音堂があり、多くの僧侶、門徒の方がお経(たぶん)を唱えていました。観音堂から金堂(国宝)にかけては、木々の新緑の中に鮮やかな濃いピンク色のミツバツツジが多数咲いています。



 背景の木々の新緑とともに映えてきれいです。

 真言宗御室派の総本山に仁和寺は、世界文化遺産に登録されています。その入り口にそびえ立つ二王門はかなり迫力があります。



 これより先は神聖な境内と、その偉容が伝えています。

 今回、御室仁和寺のオムロザクラを見に行って感じたことは、外国人参拝客がほとんどいないことです。昨年は、中国人や韓国人をはじめとする外国人の方が、日本人より多いと感じるほどだったのですが。京都市内も外国人観光客はほとんど見かけませんでした。寂しい限りです。日本人の参拝客はかなり多いのですが、京都市の地元の方が多いような気がしました。観光客は少ないように感じました。

京都のサクラの木のルーツといえる平野神社は白雲などが満開でした

2011年04月20日 | 旅行
 京都市北区の平野宮本町にある平野神社は、京都市などにあるサクラの名所に植えられたサクラの木のルーツとして有名です。例えば、円山公園にある有名なシダレザクラ(枝垂れ桜)や二条城に植えられているサトザクラ(里桜)系のタオヤメ(手弱女)のそれぞれの原木があります。

 平野神社がサクラを重視していることは、神社の紋がサクラの花を意匠化したものであることも、サクラとの縁の強さを物語っています。

 境内には約50種類・約400本のサクラの木が植えられています。正確には、400本の大部分はソメイヨシノ(染井吉野)の木ですが、これは境内裏側の夜桜見物の地域に多数植えられています。ソメイヨシノなどの並木の中に、臨時の花見茶屋が多数つくられ、夜桜見物客で賑わいます。

 これに対して、本堂前の境内には、多種多様なサクラの木が1本単位で植えられています。神門(しんもん)の入り口にはサキガケ(魁)と名付けられた有名なシダレザクラの木が3月末から一重の垂れの花が開花し、一重の花の木一本で平野神社の存在を高めていました。今は、もう葉桜です。

 神門の右横には、一見するとウメのような感じのトラノオ(虎の尾)の木が満開です。





 純白の花が枝から直接出て咲くのが特徴です。花が木の幹や枝を隠してしまうぐらいに、多数の花がたわわに付いています。トラノオの木は比較的小さく、比較的最近植えられたように思いました。

 本殿の左側には、有名なシラクモ(白雲)が満開です。





 コデマリのような白い花の塊の“まり”が多数、枝にたわわに付いています。純白といった感じの白色です。木の大きさからみて、長年、平野神社を代表する位置を占めているようです。人気が高いようです。

 ピンク色が淡く入った、八重の花のイチヨウ(一葉)もよく咲いています。



 雌しべの一つが葉に変化するので、一葉と名付けられたそうです。サトザクラ(里桜)系の品種だそうです。シジュウカラが1羽現れて、枝をつっいていました。

 神門の横にある立て札は「珍種十種類として、魁桜、目覚桜(ねざめざくら)、胡蝶桜(こちょうざくら)、嵐山桜(あらしやまざくら)、虎の尾桜、平野妹背桜(ひらのいもせざくら)、御衣黄桜(ぎょいこうざくら)、手弱女桜(たおやめざくら)、突葉根桜(つくばねざくら)が三月二八日から四月二〇日までにわたって次々と咲く」と、案内しています、これまでに聞いたことも見たこともないサクラの木の種類が並びます。

 この10種類すべての花を満開の時に見るには、京都に何回通う必要があるのか計算できません。これ以外の種類もあるため、何年も何回も通う必要があります(京都市に3月末から住んで毎日見に来れば、1カ月間で済みますが)。平安時代からの桜見物のルーツといえる平野神社での桜見物は奥がかなり深いようです。

“水都”大垣市の大垣城外堀の“船下り”を偶然、体験しました

2011年04月19日 | 旅行
 濃尾平野の北西部に位置する岐阜県大垣市は“水都”と呼ばれていることを体感しました。大垣市は湧き水が豊かで、現在でも多くの井戸が現役で使われてるそうです。

 大垣城がある大垣公園は、ちょうど、いろいろな種類のサクラの花が満開でした。なかなか絵になる風景です。



 大垣城を守る外堀は、水門川の流れを生かしたお堀です。この外堀の自然環境を守る一環として、4月上旬から中旬までイベント「水の都 おおがき船下り」が開催されました。大垣市観光協会が主催しています。その船下りの出発地になった高砂町の船着き場を偶然、通りかかりました。「まだ乗船できますよ」と教えていただき、乗船させていただきました。





 外堀の船下りコースは、お城の北側から西側を南方向に下り、「四季の広場」と呼ばれる水門川の船着き場までの片道コースでした。川の流れに従って下っていきます。

 ソメイヨシノ(染井吉野)やヤエザクラ(八重桜)、コブシなどの並木が両側に並ぶ水路を、お二人の船頭さんが前後で棹(さお)をさして、船を動かします。水路の水深は60~70センチメートルぐらいの感じで、水草が生えています。棹をさして船をこぐのは重労働です。棹をさして小舟を操る技能を持つ方が減っているそうです。

 この船下りは「乗船券」が必要な有料のイベントですが、一艘当たり乗客数は大人4人までなので、採算は採れていないと思います。船頭の方々は、アユやサツキマスなどの漁業従事の方などが中心となったボランティアだそうです。船も自前のもので、このお祭りの期間だけ提供しているそうです。外堀の環境維持を目的としたイベントだそうで、水質をきれいに保つことで、ホタルなどを呼び戻したいとのことでした。魚影は見かけなかったのですが、アユやサクラマスが住んでいるそうです。

 小舟は「武者溜橋」などの城下町らしい名前の橋をいくつもくぐります。下船した「四季の広場」の下流は「船町道標」「住吉燈台」などの船町港の跡地でした。



 住吉燈台は、江戸時代の元禄年間(1688~1674年)に伊勢湾の桑名市とを結ぶ海運のターミナルだった名残です。この辺りは船問屋などが建ち並んだそうです。明治時代には、蒸気船も就航するほど、繁栄したそうです。水難対策も織り込まれていると想像しています。



 濃尾平野は木曽川、長良川、揖斐川などの堆積作用によって陸地化した沖積平野です。大垣市一帯は地下水盆が形成され、湧き水(自噴水)があちこちで出現する「水都」です。大垣市などは、江戸時代から水門川に加えて揖斐川や杭瀬川などの河川を利用した舟運が盛んだったそうです。実際に大垣城近くの水路を見て、そのことを実感できました。小説家の司馬遼太郎がライフワークとして書き続けた「街道を行く」シリーズなどでは、どう描かれているのか興味が高まりました。