39歳にして初めてアメリカに渡って英語の勉強をした:
これまでに機会ある毎に英語の講釈をして来たこの私が、1972年8月に初めてアメリカ本土に渡って、あらためて「なるほど、本場の英語とはこういうものだったか」と認識させられた経験を振り返ってみようと思う。屡々言われていることで「学校では英語でそこそこの成績を挙げていたので、自信を持ってアメリカに行ってみたら、現地人たちが何を言っているのか付いていけなかったし、自分の意志も殆ど通じなかった」と嘆く方がおられる点だった。
私の場合は幸いにも新制度の高校に進んだ頃には、アメリカ人たちの中に入っても苦労していなかったので、アメリカに行くに際しては事英語に関しては、全く何の意識もしていなかった。ところがである、最初に到着したサンフランシスコ空港で乗り継ぎ便への接続を4時間も待たされている間に、機内で隣の席にいたアメリカ人に再会した。彼に“Oh. You are still hanging around.”と言われ、「俺は何処にもぶら下がっていないのにな」と、ほぼ理解不能だった、だが、これは後に「未だウロウロしていたのか」という言い方だと解った。
次に言われたのは“I’ll buy you a drink.”だった。この男性とは機内である程度語り合っていたので、このような「日常会話」的な口語も承知していると思われたのだろう。これも、実は「???」だった。だが、恐らく「一杯おごるよ」と言ったのだろうと適当に解釈してノコノコと付いていくと、バーに入ったので正解だったようだ。これは、後に極めて普通に使われている表現で“I’ll buy you a lunch.”と言えば「昼飯をおごるよ」となると、後になって確認できた。
次に出会った「何だ、それは」という言い方が、目的地のジョージア州のアトランタに深夜に到着してやっと辿り着いた会社が予約したホテルに入ったときに、リセプションで訊かれた“Are you with Mead?”だった。「貴方はMeadと共にあるのか」とは何だと当惑した。これもごく普通の言い方で「所属先」か「勤務先」と訊いているだけのことだったと、矢張り後になって確認できた。兎に角、アメリカに到着後は思ってもいなかった英語のOJT(on the job training)の連続だった。
話はこれでは終わらなかった。アトランタの次にはMeadの本社があるオハイオ州デイトンに向かった。言いたくはないが、39歳にして初めて渡ったアメリカでは、何処に行くのも何をするのも、全てが初めての経験ばかりで、おっかなびっくりの連続だった。本社では早朝の8時前に指定されたマネージャーの個室に入ると「コーヒーを飲むか」と訊かれた。マネージャーは個室の外に出て秘書さんに“Would you please ~.”と丁寧語で依頼した。「へー」だった。
すると、秘書さんがやって来て“How do you take it?”と尋ねるのだった。「コーヒーカップ」か「マグカップ」で飲むに決まっているじゃないかと思った。だが、そんなことを確認する訳がないと閃いて“I’ll take it straight.”と答えてみた。それが正解で質問はウエイターたちが言う“Cream and sugar?”と同じ性質だったのだ。恐らく学校教育の英語や所謂英会話教室でこういう語り口を教えないだろうから、アメリカに行けば戸惑わされるのではないだろうかと痛感した。偉そうに言う私は勉強の連続だった。
未だ未だ英語の勉強は続いた。1973年だったと記憶するが、第一次オイルショックの頃で輸入の製紙用パルプは極端な売り手市場というか供給不足で、我が国の多くの製紙会社はパルプの入手に苦心惨憺されていた。その最中に、某大手メーカーの原料担当の常務さんが玉の確保にカナダとアメリカのサプライヤーを行脚された。その際にMeadにも行かれるのでお供した。交渉は本社のオウナーで国際部門担当副社長のネルソン・ミード氏の、足がくるぶしの辺りまで沈んでしまうような超豪華な絨毯が敷かれたオフィスで行われた。
常務さんは当然のことで「供給量の増加」を懇願された。だが、ミード氏は一言の下にお断りした。常務さんは全く何の抵抗もされずに引き下がられて、交渉はアッという間に終わった。残された私の仕事は、会談の結果を東京の事務所の代表者である総支配人にテレックスで報告することだった。だが「何の抵抗もせずに」という表現が直ぐに浮かんでこなかったので悩んでいると、秘書さんが通りかかったので、事情を説明して助けを求めた。
彼女は事も無げに“You mean he did not press the point any further?”と訊いていた。将にその通りの状況だったので、「それ頂き」とばかりに小躍りして、無事に報告書が出来た。その時に痛感したことは「アメリカ人は英語が上手いなー。こんなに簡単な単語だけで、こんな面倒な状態を説明出来るのだから凄いな」だった。
私が何時も強調する要点は、このように「上手いな」と感心したが「なるほど。こういう時は、このように簡単な言葉を使って表現するのか」と思ったときには、それらを確実に覚えて置いて「ここぞという時に使えるようにしておくこと」が肝腎なのである。但し、その勉強させてくれる相手を選べないと、禁じ手のswearword入りの下層階級の英語になってしまうので十分にご注意を。
これまでに機会ある毎に英語の講釈をして来たこの私が、1972年8月に初めてアメリカ本土に渡って、あらためて「なるほど、本場の英語とはこういうものだったか」と認識させられた経験を振り返ってみようと思う。屡々言われていることで「学校では英語でそこそこの成績を挙げていたので、自信を持ってアメリカに行ってみたら、現地人たちが何を言っているのか付いていけなかったし、自分の意志も殆ど通じなかった」と嘆く方がおられる点だった。
私の場合は幸いにも新制度の高校に進んだ頃には、アメリカ人たちの中に入っても苦労していなかったので、アメリカに行くに際しては事英語に関しては、全く何の意識もしていなかった。ところがである、最初に到着したサンフランシスコ空港で乗り継ぎ便への接続を4時間も待たされている間に、機内で隣の席にいたアメリカ人に再会した。彼に“Oh. You are still hanging around.”と言われ、「俺は何処にもぶら下がっていないのにな」と、ほぼ理解不能だった、だが、これは後に「未だウロウロしていたのか」という言い方だと解った。
次に言われたのは“I’ll buy you a drink.”だった。この男性とは機内である程度語り合っていたので、このような「日常会話」的な口語も承知していると思われたのだろう。これも、実は「???」だった。だが、恐らく「一杯おごるよ」と言ったのだろうと適当に解釈してノコノコと付いていくと、バーに入ったので正解だったようだ。これは、後に極めて普通に使われている表現で“I’ll buy you a lunch.”と言えば「昼飯をおごるよ」となると、後になって確認できた。
次に出会った「何だ、それは」という言い方が、目的地のジョージア州のアトランタに深夜に到着してやっと辿り着いた会社が予約したホテルに入ったときに、リセプションで訊かれた“Are you with Mead?”だった。「貴方はMeadと共にあるのか」とは何だと当惑した。これもごく普通の言い方で「所属先」か「勤務先」と訊いているだけのことだったと、矢張り後になって確認できた。兎に角、アメリカに到着後は思ってもいなかった英語のOJT(on the job training)の連続だった。
話はこれでは終わらなかった。アトランタの次にはMeadの本社があるオハイオ州デイトンに向かった。言いたくはないが、39歳にして初めて渡ったアメリカでは、何処に行くのも何をするのも、全てが初めての経験ばかりで、おっかなびっくりの連続だった。本社では早朝の8時前に指定されたマネージャーの個室に入ると「コーヒーを飲むか」と訊かれた。マネージャーは個室の外に出て秘書さんに“Would you please ~.”と丁寧語で依頼した。「へー」だった。
すると、秘書さんがやって来て“How do you take it?”と尋ねるのだった。「コーヒーカップ」か「マグカップ」で飲むに決まっているじゃないかと思った。だが、そんなことを確認する訳がないと閃いて“I’ll take it straight.”と答えてみた。それが正解で質問はウエイターたちが言う“Cream and sugar?”と同じ性質だったのだ。恐らく学校教育の英語や所謂英会話教室でこういう語り口を教えないだろうから、アメリカに行けば戸惑わされるのではないだろうかと痛感した。偉そうに言う私は勉強の連続だった。
未だ未だ英語の勉強は続いた。1973年だったと記憶するが、第一次オイルショックの頃で輸入の製紙用パルプは極端な売り手市場というか供給不足で、我が国の多くの製紙会社はパルプの入手に苦心惨憺されていた。その最中に、某大手メーカーの原料担当の常務さんが玉の確保にカナダとアメリカのサプライヤーを行脚された。その際にMeadにも行かれるのでお供した。交渉は本社のオウナーで国際部門担当副社長のネルソン・ミード氏の、足がくるぶしの辺りまで沈んでしまうような超豪華な絨毯が敷かれたオフィスで行われた。
常務さんは当然のことで「供給量の増加」を懇願された。だが、ミード氏は一言の下にお断りした。常務さんは全く何の抵抗もされずに引き下がられて、交渉はアッという間に終わった。残された私の仕事は、会談の結果を東京の事務所の代表者である総支配人にテレックスで報告することだった。だが「何の抵抗もせずに」という表現が直ぐに浮かんでこなかったので悩んでいると、秘書さんが通りかかったので、事情を説明して助けを求めた。
彼女は事も無げに“You mean he did not press the point any further?”と訊いていた。将にその通りの状況だったので、「それ頂き」とばかりに小躍りして、無事に報告書が出来た。その時に痛感したことは「アメリカ人は英語が上手いなー。こんなに簡単な単語だけで、こんな面倒な状態を説明出来るのだから凄いな」だった。
私が何時も強調する要点は、このように「上手いな」と感心したが「なるほど。こういう時は、このように簡単な言葉を使って表現するのか」と思ったときには、それらを確実に覚えて置いて「ここぞという時に使えるようにしておくこと」が肝腎なのである。但し、その勉強させてくれる相手を選べないと、禁じ手のswearword入りの下層階級の英語になってしまうので十分にご注意を。
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