6月24日の朝日新聞「折々のことば」より。以下鷲田清一さんのことばを引用する。
戦時下、人命が余りに軽んじられた反動で、命の「至上の価値」を唱えるうち、日々死の脅威に晒(さら)されている人々を支える体制も手薄になっていたと、科学史家は憂う。この社会は「隣にいる成員が日々次々に死んでいく社会」でもあるのに、その過程に人は子細に目を向けていないと。「近代科学と日本の課題」(「中央公論」7月号)から。
授業で古典の授業をしていると、この話題がよく出てしまう。昔の人は身近な人の「死」を経験することが、少なくとも現代人と比べれば多かった。それに対して今の高校生は身近な人の死をほとんど経験していない。だから「死」をリアルに感じることができない。
これはとてもいいことではある。長生きすることは人間の夢だ。ただし「死」の重みを知らないまま大人になる人ばかりになってしまうと、命を軽く感じてしまうのではないか。あるいは「生きることの大切さ」の実感に乏しいのではないか。それが心配になるのである。
古典の世界の人たちは「死」を覚悟している。その価値観の違いを考えることは古典を学ぶ意義の一つである。
『子供が生まれたら犬を飼いなさい。
子供が赤ん坊の時、子供の良き守り手となるでしょう。
子供が幼年期の時、子供の良き遊び相手となるでしょう。
子供が少年期の時、子供の良き理解者となるでしょう。
そして子供が青年になった時、
自らの死をもって子供に命の尊さを教えるでしょう。』
大切な命はやがて終わるということを実感として知ることは、ヒトが社会の中で生きていくうえで大切なことだと思います。