世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

「陶磁器・パヤオ」シリーズ・1

2016-01-21 13:09:40 | 北タイ陶磁
<パヤオ窯群の背景>

長い連載になると考えるが、パヤオ窯群が創業した背景から眺めたい。中国・雲南からタイ族は南下したと考えられているが、メコン川を下り最初に到達した平地は、チェンライから続くパヤオ盆地である。
パヤオ盆地には、クワン・パヤオ(パヤオ湖)が水を湛へ、西には標高1500mを越えるルワン山国立公園の急峻な山系が聳えている。
ルワン山系の峠で、パヤオ湖の方向を見るが、2度の峠越えともに靄って下が見えない。しかし山系は写真のように捉えることができた。峠はブア・トーン(メキシカンサンフラワー)が満開であった。
パヤオ湖は、20数種の淡水魚が棲息するという豊かな湖で、訪れると必ず漁をする光景を見ることができる。
パヤオへのアプローチはランパーンを経由して、国道1号を北上するルートと、チェンマイから国道118号、120号を経由して至るルートがある。当該ブロガーは2度パヤオを訪れたが、いずれもチェンマイから北上した。
パヤオの歴史をみておきたい。「パヤオ年代記」によると、1174年シンハラート王が、この地に街を建設したとされている。
パヤオが頭角を現すのは、13世紀のガムムアン王の時代からで、この時代スコータイのラームカムヘーン王、ランナー(チェンマイ)のメンライ王と同盟を結ぶほど、パヤオは存在感を持った大国となった。ガムムアン王は、ナーンのカーオ王国へ侵攻したが、失敗に終わっている。しかし、「ナーン年代記」には、ガムムアン王は軍事的に非常に強力であったと示唆されている。
ガムムアン王亡き後は、カムデーン王が即位した。カムデーン王は、チェンマイ第2代・チャイソンクラーム王がクン・クルア(チャイソンクラームの兄弟)に離反されたときに援軍を送った。チャイソンクラームは見返りに、自分の娘をカムデーン王の息子で、後の王になるカムルーにおくった。
しかし、カムルー王の後を継いだカムプー王(1334-1336年)の時代に、カーオ王国の後援のもとチェンマイの第4代・カムフー王がパヤオを派遣下に置いた。
この後、パヤオはチェンマイのランナー王が任命した国主が治める地となるが、パヤオの国主には有力な家臣や王族が配置される、重要な都市であった。
この歴史的背景と、パヤオ窯群の消長は関連しているようである。パヤオのウィアン・ブア窯群の炭素をC-14年代測定したところ、西暦1280-1300年を示したと報告されている。この年代測定法に全幅の信頼は置けないが、示した年代はガムムアン王の時代に重なっている・・・これは偶然の一致とは思われない。
いつでも、どこでも新たな時代には、旋風が吹くものでパヤオ窯群に、一斉に煙がたなびいたとものと考えている。

                               <続く>



峠は雪だった

2016-01-20 08:10:34 | 日記
去る1月13日、13ヵ月ぶりに帰国した。午後10時過ぎの到着便だったので、ホテル日航関西空港に1泊した。下の写真は1月14日のホテルからの朝焼けである。
チェンマイで見た朝焼け程の鮮やかさはないが、空港島への連絡橋や生駒の山系が、くっきりと見えそれなりの景色であった。
13日は京都に1泊することにして、京都へ向かった。それなりの日本料理を食するのは、昨年2月のバンコク・ホテルオークラの「山里」以来1年ぶりである。チェンマイでは日本人が経営する家庭料理以外は、ほぼ”もどき”である。京都では「たん熊」での昼食である。
京都駅前の新阪急で宿泊、田舎への高速バスが朝7時と早いので、駅前の宿泊とした。京都タワーを仰ぎ見ながら乗車。
中国道も中国山地の峠に近づくと写真の雪である。タイ人なら歓喜して喜ぶであろうが、こちらは寒くて堪らない。春までは我慢が続くことになる。

 次回よりいよいよ「陶磁器・パヤオ」シリーズを連載する。




Ceramics of Seductionのサンカンペーン陶磁

2016-01-13 07:46:12 | 北タイ陶磁
昨夜10時過ぎ14か月振りに帰国した。今朝ホテル日航関西空港からUPデートしている。

「陶磁器・パヤオ」シリーズの連載を先日記載しておきながら、早速ほかの記事で恐縮である。シリーズの連載は1月20日前後から開始したいと考えている。当該ブログをもって暫く休みとする。
Ceramics of Seductionなる図書に、サンカンペーン陶磁の盤が紹介されている。特に目新しいものはないが、数点だけやや珍しい文様が掲載されている。



この草花文は中央下の中心的な葉文の下に、5本の縦筋と左右対称にそれぞれ2本の曲線がシンクロナイズしている。これは草花文の中で、比較的珍しい文様である。
一見カロンかと思えるほどに、器全面に草花文を描いている。サンカンペーンでは多くは無いが、この手の鉄絵文様は散見できる。

この手の鎬文はサンカンペーンでは、比較的多くみる装飾技法である。この技法は、当該ブロガーの勝手な想定であるが、小鹿田皿山、小石原皿山で云う”打ち刷毛目”の技法と思われる。
盤を成形後すぐに白土の粘土液を刷毛でスリップ掛けし、轆轤を低速回転させ、その刷毛を軽く上下に動かし、器面に押し当てて化粧土に鎬文を形成する技法である。白化粧土は生掛けであり、打ち刷毛目により、薄くなった部分は胎土色が、透けて見える。
この技法が、14-15世紀のランナーで行われていたと云う事自体が、大きな不思議である。サンカンペーンのオリジナルか?周辺諸国の影響を受けているのであろうか、従来から気になっていたが、他にあまりにも謎が多く放ったらかしにしていた。今後探究したい。

この手の魚文は数が少なく且つ倣作に、この手の魚文が採用されているので、真贋の判断がむつかしい。このような魚文に合われたら注意が必要である。
 帰国後京都に寄ってから田舎に帰る予定である。暫くごたごたするのでブログは、2-3日お休みとしたい。










「陶磁器・パヤオ」シリーズの連載開始

2016-01-10 11:10:35 | 北タイ陶磁
サンカンペーン陶磁に興味を持ち、少ないながらも僅かのコレクションを保有するまでになったが、調べれば調べるほど謎が深まる。どうも兄弟関係にありそうな「パヤオ陶磁」が理解できなければ、謎は解けそうもないとの思いから、パヤオ古窯址を2度も訪れる羽目になった。
しかしながら、謎は更に深まったが、謎を解きほぐす端緒もつかめたように考えられる。日本語書籍、英文書籍、タイ文書籍や現地の博物館、窯址訪問、陶片採取で得られた知見を今般「陶磁器・パヤオ」シリーズとしてまとめたいと考えている。
しかし、あまりにも大きなテーマを上段から構えており、まとめられるかどうか不安もある。パヤオ窯についての紹介は、ごく一部を除いて皆無にちかく、不安を助長している一因でもある。後続の方々の参考になれば幸いである。

以下の文献を参考にまとめる予定である。
<日本語書籍>
○世界陶磁全集 16 南海:小学館
○タイ・カンボジアの陶磁:福岡市美術館
○ベトナムの皇帝陶磁:関千里著 めこん社
○東南アジアの古美術:関千里著 めこん社
○タイ北方窯の陶磁器:東南アジア陶磁館
○ラーン・ナー王国の陶磁:東南アジア古窯址調査会
<英文書籍>
○Northern Thai Ceramics:J/C/Shaw
○Ceramics from the Thai-Burma border:Sumitr pitiphat
○Ceramics In Lanna:Sayan Praicharnjit
○Ceramics of Seduction:Dawn F. Rooney
<タイ文字書籍>
○陶磁器・パヤオ
○陶磁器・サンカローク
繰り返しになるが、以上の文献と博物館、窯址訪問、陶片採取の結果から新たな知見を含めて紹介する。願わくば若い探究者により深堀され、謎が究明されることを願いたい。
尚、連載は飛び飛びになることをお許し願いたい。また連載の記事や写真は、無断流用して頂いて結構であるが、内容の責任については免責願いたい。












謎が続くタイ北部諸窯のルーツ・2

2016-01-09 15:59:53 | 北タイ陶磁
<続き>

タイ北部諸窯のルーツに辿りつけないでいる。以下の話も噺で信憑性に欠けるが、以下のように感じなければルーツ探しそのものが、お蔵入りになるであろう。
下の写真はパヤオのワット・シーコムカム付属パヤオ文化センターで入手した、タイ語書籍「陶磁器・パヤオ」である。表紙のタイ語を直訳すれば工業品・パヤオということになるが、つまりは陶磁器のことであるので、今後当該ブログで図書名を記述する際は「クルアンパンディンパオ・パヤオ(陶磁器・パヤオ)」と表記する。
その「陶磁器・パヤオ」に蛇の目釉剥ぎの皿の写真が掲載されている。著者はグリヤンサック・チャイダルン氏と表記されている。その皿を氏はどこから探し出したか分からないが、パヤオと記載するのみで、具体的な窯名称の記載はない。
上の写真を御覧になって、各位どのように感じられたのであろうか? あまり考えたくないが、安南陶磁に似ているではないか。
タイ北部諸窯と安南陶磁の関係を、早い段階から指摘していたのは関千里氏である。氏には失礼ながら荒唐無稽とは云わないものの、従来はその類と考えていた。多少なりとも修正が必要かもしれない。
氏は、その著書「ベトナムの皇帝陶磁」にて概要以下のように記述されている。やや長文であるが、お許し願いたい。

”スコータイ陶磁は鉄を含み素地が粗く、化粧土を掛けて鉄で描いている。筆による鉄絵の表現法は磁州窯系で金(1115-1234年)に始まったとされるが、その流れを汲んでいると言える。 ー略ー ベトナムの陳朝にいた磁州窯系の流れを汲む陶工たちを伴って帰国したと考えると、うなづける点が出てくる。これが陳朝の陶磁文化が東南アジアに影響を与えた大きな波だったとすれば、次の大きな波は永楽帝(在位1403-1424年)のベトナム侵攻、直接支配、そして圧政に耐えきれなくなって押し出されたかたちの陶工たちによって伝播したと考えられる。そしてシーサッチャナーライやスコータイの鉄絵の花文や魚文、ベトナムの鉄絵花文や青花魚文とに共通性を見出すこともできる。また元青花のように細密で余白を残さず、びっしりと描きつめる独特な描写は、カロンに鉄絵の伝統となって根付いた。”・・・と記述されている。
安南(大越)では、14世紀を前後して重ね焼きの技法に変化が見られる。目跡から所謂蛇の目に移行するのである。蛇の目は金代の耀州窯青磁の鉢や定窯の白磁の碗にも見られ、安南のそれは、それらの影響と考えられる。
・・・と、云うようなことで、パヤオの蛇の目は安南の重ね焼き焼成技法のパヤオへの伝播と考えられなくもない。
そこで改めて下の地図を御覧願いたい。黄色い線、つまり北タイから西双版納を経由して雲南府に繋がらないでいると前回紹介した。緑の線はチェンマイからランサーン王国の王都ルアンプラバーンを経由して大越に繋がりそうである。
ルアンプラバーンの郊外バン・サンハーイには横焔式単室窯址が存在している。安南諸窯も中世北タイ諸窯に遡る時代に横焔式単室窯が存在した。先年ベトナム・バク二ン省ドゥオンサー古窯址を訪れたが、煙道は二つであるが、確実に横焔式単室窯であった。
大越→ランサーン→ランナーのルートについても検討すべき課題は多いが、当該ブロガーにとっては、従来歯牙にもかけていなかったルートの再検討を迫るこの頃である。




                                  <了>