<パヤオ窯群の背景>
長い連載になると考えるが、パヤオ窯群が創業した背景から眺めたい。中国・雲南からタイ族は南下したと考えられているが、メコン川を下り最初に到達した平地は、チェンライから続くパヤオ盆地である。
パヤオ盆地には、クワン・パヤオ(パヤオ湖)が水を湛へ、西には標高1500mを越えるルワン山国立公園の急峻な山系が聳えている。
ルワン山系の峠で、パヤオ湖の方向を見るが、2度の峠越えともに靄って下が見えない。しかし山系は写真のように捉えることができた。峠はブア・トーン(メキシカンサンフラワー)が満開であった。
パヤオ湖は、20数種の淡水魚が棲息するという豊かな湖で、訪れると必ず漁をする光景を見ることができる。
パヤオへのアプローチはランパーンを経由して、国道1号を北上するルートと、チェンマイから国道118号、120号を経由して至るルートがある。当該ブロガーは2度パヤオを訪れたが、いずれもチェンマイから北上した。
パヤオの歴史をみておきたい。「パヤオ年代記」によると、1174年シンハラート王が、この地に街を建設したとされている。
パヤオが頭角を現すのは、13世紀のガムムアン王の時代からで、この時代スコータイのラームカムヘーン王、ランナー(チェンマイ)のメンライ王と同盟を結ぶほど、パヤオは存在感を持った大国となった。ガムムアン王は、ナーンのカーオ王国へ侵攻したが、失敗に終わっている。しかし、「ナーン年代記」には、ガムムアン王は軍事的に非常に強力であったと示唆されている。
ガムムアン王亡き後は、カムデーン王が即位した。カムデーン王は、チェンマイ第2代・チャイソンクラーム王がクン・クルア(チャイソンクラームの兄弟)に離反されたときに援軍を送った。チャイソンクラームは見返りに、自分の娘をカムデーン王の息子で、後の王になるカムルーにおくった。
しかし、カムルー王の後を継いだカムプー王(1334-1336年)の時代に、カーオ王国の後援のもとチェンマイの第4代・カムフー王がパヤオを派遣下に置いた。
この後、パヤオはチェンマイのランナー王が任命した国主が治める地となるが、パヤオの国主には有力な家臣や王族が配置される、重要な都市であった。
この歴史的背景と、パヤオ窯群の消長は関連しているようである。パヤオのウィアン・ブア窯群の炭素をC-14年代測定したところ、西暦1280-1300年を示したと報告されている。この年代測定法に全幅の信頼は置けないが、示した年代はガムムアン王の時代に重なっている・・・これは偶然の一致とは思われない。
いつでも、どこでも新たな時代には、旋風が吹くものでパヤオ窯群に、一斉に煙がたなびいたとものと考えている。
<続く>
長い連載になると考えるが、パヤオ窯群が創業した背景から眺めたい。中国・雲南からタイ族は南下したと考えられているが、メコン川を下り最初に到達した平地は、チェンライから続くパヤオ盆地である。
パヤオ盆地には、クワン・パヤオ(パヤオ湖)が水を湛へ、西には標高1500mを越えるルワン山国立公園の急峻な山系が聳えている。



パヤオの歴史をみておきたい。「パヤオ年代記」によると、1174年シンハラート王が、この地に街を建設したとされている。
パヤオが頭角を現すのは、13世紀のガムムアン王の時代からで、この時代スコータイのラームカムヘーン王、ランナー(チェンマイ)のメンライ王と同盟を結ぶほど、パヤオは存在感を持った大国となった。ガムムアン王は、ナーンのカーオ王国へ侵攻したが、失敗に終わっている。しかし、「ナーン年代記」には、ガムムアン王は軍事的に非常に強力であったと示唆されている。
ガムムアン王亡き後は、カムデーン王が即位した。カムデーン王は、チェンマイ第2代・チャイソンクラーム王がクン・クルア(チャイソンクラームの兄弟)に離反されたときに援軍を送った。チャイソンクラームは見返りに、自分の娘をカムデーン王の息子で、後の王になるカムルーにおくった。
しかし、カムルー王の後を継いだカムプー王(1334-1336年)の時代に、カーオ王国の後援のもとチェンマイの第4代・カムフー王がパヤオを派遣下に置いた。
この後、パヤオはチェンマイのランナー王が任命した国主が治める地となるが、パヤオの国主には有力な家臣や王族が配置される、重要な都市であった。
この歴史的背景と、パヤオ窯群の消長は関連しているようである。パヤオのウィアン・ブア窯群の炭素をC-14年代測定したところ、西暦1280-1300年を示したと報告されている。この年代測定法に全幅の信頼は置けないが、示した年代はガムムアン王の時代に重なっている・・・これは偶然の一致とは思われない。
いつでも、どこでも新たな時代には、旋風が吹くものでパヤオ窯群に、一斉に煙がたなびいたとものと考えている。
<続く>