オリンピックの競技除外問題をネット記事で目にしたとき、IOC(国際オリンピック委員会)というのは、何様かと思った。
スポーツショーとして、地味な競技はオリンピックにふさわしくないから外す。
外されたくないなら、わかりやすくルールを変えるか、組織改革をしろ。
まるで、すべてのスポーツの上にIOC様が君臨しているかのような傲慢さではないか。
スポーツは、IOCのためにあるのか。
もっと極端なことを言えば、IOCの金儲けのために存在するものなのか。
オリンピック候補地に多大な金を使わせてプレゼンテーションをさせ、「一つの金づる」を選ぶ。
それは、その国に多くの経済効果を及ぼすから、どの国もIOC様の御威光に感謝して、下僕のようにひれ伏す。
その繰り返しが延々と続いて、IOCはスポーツ界で神のような存在になった。
つまり、「俺がルールだ」という恐ろしい勘違い。
スポーツ界は、IOC様の顔色をうかがって、五輪で高視聴率が取れるように競技のルールを変え、選手や関係者に不都合を強いる。
本来、スポーツのルールは、競技者やファンのためにあるのであって、一組織の威厳や財布を保つためにあるのではない。
現実問題として、オリンピックは必要だと思うが、「王様として君臨したいだけの組織」は、必要ないのではないかと思う。
招致にあたって、多額の金を要求しない仕組み。
その競技本来の個性を殺すような無理なルール改変を要求しない仕組み。
そして、たった数十人の「会議は踊る」的な疑似王侯会議のような密室談義をなくす仕組み。
それができない限り、各競技は、オリンピックの紋所をかざすIOC様によって、まったく違う形に構成された別競技になるという悲劇が繰り返されることになる。
おそらく、IOCの理事様たちは、スポーツに愛を持っていないのだろう。
懸命に競技に励むアスリートたちを「金をもたらす道具」だと思っているのかもしれない。
「提案」という名の「命令」。
その「命令」を完遂するために、多くの人たちが多くの犠牲を払って、IOC様の意に沿うような案を出し、ひれ伏す様は、痛々しすぎて、スポーツが可哀想になる。
そんなこともあって、本当に組織改革が必要なのは、各競技界ではなく、IOC様なのではないか、と思っている私です。
スポーツショーとして、地味な競技はオリンピックにふさわしくないから外す。
外されたくないなら、わかりやすくルールを変えるか、組織改革をしろ。
まるで、すべてのスポーツの上にIOC様が君臨しているかのような傲慢さではないか。
スポーツは、IOCのためにあるのか。
もっと極端なことを言えば、IOCの金儲けのために存在するものなのか。
オリンピック候補地に多大な金を使わせてプレゼンテーションをさせ、「一つの金づる」を選ぶ。
それは、その国に多くの経済効果を及ぼすから、どの国もIOC様の御威光に感謝して、下僕のようにひれ伏す。
その繰り返しが延々と続いて、IOCはスポーツ界で神のような存在になった。
つまり、「俺がルールだ」という恐ろしい勘違い。
スポーツ界は、IOC様の顔色をうかがって、五輪で高視聴率が取れるように競技のルールを変え、選手や関係者に不都合を強いる。
本来、スポーツのルールは、競技者やファンのためにあるのであって、一組織の威厳や財布を保つためにあるのではない。
現実問題として、オリンピックは必要だと思うが、「王様として君臨したいだけの組織」は、必要ないのではないかと思う。
招致にあたって、多額の金を要求しない仕組み。
その競技本来の個性を殺すような無理なルール改変を要求しない仕組み。
そして、たった数十人の「会議は踊る」的な疑似王侯会議のような密室談義をなくす仕組み。
それができない限り、各競技は、オリンピックの紋所をかざすIOC様によって、まったく違う形に構成された別競技になるという悲劇が繰り返されることになる。
おそらく、IOCの理事様たちは、スポーツに愛を持っていないのだろう。
懸命に競技に励むアスリートたちを「金をもたらす道具」だと思っているのかもしれない。
「提案」という名の「命令」。
その「命令」を完遂するために、多くの人たちが多くの犠牲を払って、IOC様の意に沿うような案を出し、ひれ伏す様は、痛々しすぎて、スポーツが可哀想になる。
そんなこともあって、本当に組織改革が必要なのは、各競技界ではなく、IOC様なのではないか、と思っている私です。