リスタートのブログ

住宅関連の文章を載せていましたが、メーカーとの付き合いがなくなったのでオヤジのひとり言に内容を変えました。

変人がディスられる

2013-12-22 08:28:01 | オヤジの日記
教育者には、勘違いしている人が、稀にだがいるようだ。

変人も少なからずいるような気がする。
だが、彼らよりも私の方が間違いなく変人だという話を。


大学時代の友人に、中学校の教師をしていたが、訳あって40過ぎに教師をやめた男がいる。
その後は、自宅で小さな塾を開き、代筆のアルバイトなどもしながら、生計を立てていた。

その彼が、昨年から、少年野球の監督をしている。
ほとんど野球経験がないのだが、塾生の親に頼み込まれて、仕方なく引き受けたという。

興味があったので、日曜日の朝、2回ほど彼が教えているところを見に行ったことがある。
素人の割には、的確に教えていたと思う。
ただ、一つだけ違和感を持った。

今年の10月には、初めて試合を見に行った。
そのときも、違和感を持った。

試合のとき、会心の当たりを打った少年が、「おーし!」と吼えた。
それを監督である彼は、注意したのである。

「いつも言ってるだろ。いちいち喜ぶな」と。

少年は「はい」と、ヘルメットをとって、素直に答えていた。

次に、セカンドの少年が、ファインプレーをした。
それをナインと父兄が喜んだので、ガッツポーズで返答した。

しかし、彼は守備を終えて帰ってきた少年に、「ガッツポーズはやらない約束だろ」と注意したのである。

試合は、残念ながら負けた。
そして、試合後は、お決まりのホームベース前での帽子を取っての挨拶。
挨拶のあと、勝った相手チームの少年たちは、ハイタッチをしたり、肩を叩き合ったりして喜びを表現していた。
父兄たちも、大声で喜び合っていた。

それは、普通の光景だった。

だが、そのあと、普通ではない光景を私は見た。

友人が、負けて帰ってきた少年たちに、「いいか、君たちは、たとえ勝ったとしても、あんな風には喜ぶなよ。負けた方に敬意を表すのが、スポーツのマナーだ」と言ったのだ。

少年たちは、素直に「はい」と答えていた。
父兄たちも、頷いていた。


あとで、友人と昼メシを食ったとき、なんでガッツポーズがいけないんだ、なんで勝って喜んじゃいけないんだ、彼らは修行僧なのか、と聞いた。

友人が言う。
「だって、相手に失礼だろ。負けた方のことも考えないと」

しかし、勝負は、勝って喜び、負けて悔しがるものじゃないのか。
スポーツの場合は、一つ一つのプレイに意味がある。
その意味を知るために、彼らは練習をしているんじゃないのか。

一つの答えが見つかったときに、なぜ喜んではいけないんだ。
喜び、悔しがり、怒り、ときに泣き、それを上達や成長の糧にする。

負けたら悔しがる。
それをバネしにして練習を頑張る。
勝ったら、素直に喜び、その喜びを次に繋げるために、また頑張る。
それは、いけないことなのか。

それを抑えて、何の意味があるんだ。
おまえ、教師をしていたとき、生徒に対して、そんなに抑圧的だったのか。

「我慢を教えていたんだよ」と友人が言う。
「我慢のできないやつはダメだ。人に迷惑をかける」

しかし、我慢は強制するものじゃないだろう。
我慢だけを教えるが、教育なのか。

我慢の先に、達成感はあるのか。

「もちろんある。我慢のできる人間だけが、達成感を味わえるんだ」

それが強制された我慢だとしても、か。

「教育としての我慢を覚えた人間は、成長が早いんだ」

では、人間としての喜怒哀楽は、どうなる?

「我慢を覚えてからだな」

つまり、すべてのものの上に、我慢があるということか。

「そうなる」

たいへん嫌な言い方になるし、友人を傷つけるとになるかもしれないと思ったが、このままでは釈然としないので聞いてみた。

それなら、おまえ、なんで教師をやめた。
我慢できなかったから、やめたんじゃないのか。
それとも、達成感を味わったから、やめたのか。
俺は、教師として上り詰めたと思ったから、やめたのか。
おまえは、40代で教職を極めたのか。

すると、友人は、こう答えた。
「我慢ができない人間が、我慢を教えることは許されないのか。
俺は教職には我慢できなかったが、他のことは我慢できる。だから、ひとに我慢を教えられる。
世間の評論家なんて、そんなもんだろ? 実戦は苦手でも理論武装はできる。
教育者に実践は必要ない。理論があればいい。
そして、それを無理強いしたとしても結果がついてくればいい。
一つのクラスに馬鹿は何人もいる。野球チームに下手くそなやつもたくさんいる。
それを束ねるのは、上に立つものの『強制力』だよ。その力が強い方が上手くいく。
中学では失敗したが、今度は成功しそうなんだ。
一度見ただけで文句を言わないでくれ、何か言うのなら、結果が出てからだ」


動物好き、特に小動物が好きな気の優しい友人だが、「年少者への支配」という「うまみ」を一度味わうと、自分が王様にでもなったつもりになるのだろうか。
あるいは、意地悪な言い方になるが、小動物が好きなのも、支配ができるからか。


友人に言った。

なあ、俺んちのアパートの庭の段ボールに野良猫が住み着いているんだが、俺と野良猫は、対等だぞ。

「馬鹿じゃねえか」


そうか………馬鹿か。

俺は、自分が馬鹿だということを知っているが、おまえはどうだ?

「知らん」


会話にならなかった。



ただ冷静に考えると、この場合は、野良猫と対等の私の方が、変人と捉えることもできる。

世間一般の考え方としては、おそらく、そうだろう。


無駄だとは思ったが、友人に言ってみた。

俺は、野良猫と会話ができるんだぜ。


「おまえ、俺だからいいが、他のやつには、そんなことを言うなよ。確実にディスられるぞ」


ハハハハハ、と笑っておいたが、「ディスられる」って、どういう意味?


(ネットで検索すれば簡単にわかるのだろうが、意地でも調べない。それは、私が変人だからだと思う)