前回も書いたが、冬季オリンピックの採点競技は、不透明で納得のいかないことが多い。
先日の女子フィギュアで、金メダリストの点数に関して「疑惑」が持たれている、と書かれたネット記事を見た。
実際の競技を見ていないので、どこが「疑惑」なのか、私にはわからない。
ただ、キム・ヨナ選手が銀メダルに終わったことをキム・ヨナ選手の母国の方々が怒っているというのは、記事を呼んで理解した。
採点競技は、協会側が、どんなに「厳正に採点した」と主張しても、採点者の主観が想像できたり、大国の横やりが想像できるから、その主張にあまり説得力を感じない。
しかし、理性ある抗議はいいが、強圧的な感情の勝った抗議は、あまり気持ちのいいものではない。
キム・ヨナ選手の母国は、勝てば大騒ぎをするが、負けたら人のせいにする、という例が過去何度かあった。
抗議は、人としての権利だが、数を恃んだ理性の欠けた抗議は、正当な世論とは認められないのではないか。
排他的な国は、スポーツの世界でも排他的な感性で、価値観を歪めようとする。
採点競技は、うさん臭いので、私は見ないようにしているが、ネットの記事を見て、運良く日本がメダルを取ったのを知ったときは「アッパレ」をさし上げるようにしている。
私だけの考えだと思うが、運がよくても悪くても、その結果を受け入れるのが、採点競技だと思っている。
私も排他的な男だが、その程度の運命を受け入れる覚悟はある。
キム・ヨナ選手が表彰台で、銀メダルを持って微笑んでいる姿をネットで見た。
美しいな、と思った。
ロシアの選手も美しいな、と思った。
もちろん、イタリアの選手も。
(そして、浅田真央さんも)
技の美しさを見せる「ショー」で、美しい3人が栄誉を受けた。
それが、女子フィギュアというものではないか、と私は思っている。
少し話は変わるが、関東地方に2度目の大雪が降った日の夜、大学時代の友人の息子から、突然電話があった。
友人の息子は19歳の1浪。
「テレビのニュースで東京の雪の場面ばかり流すのは無駄じゃないか。大雪が降っていますなんて一度流すだけでいい。こっちだって雪は降っているんだ」
「俺たちには、東京の雪なんて関係ないし、そんなニュースはいらない。雪が降るたびに大騒ぎして電車が止まるなんて情けないと思わないのかね」
「こっちじゃ、20センチ程度の雪は当たり前すぎて何を甘ったれてるんだと思うよ。東京、ざまあ!」
若者らしい、偏ったご意見である。
それに対して、私は東京コンプレックスもいい加減にしろ、と説教した。
もちろん、そんなことを言われて「はい、わかりました」と答える素直な19歳など、おそらくこの地球上にはいない。
「俺たちの生活には、あんなニュース関係ないでしょ! 俺のとこは新潟だもの。東京のニュースなんかいらないよ!」と反発された。
ニュースは、フミヤ(友人の息子)のためだけに、あるのではない。
すべての人のためにある。
たとえば、遠くに暮らす親が、自分の息子が働いている東京で大雪が降っているのを知ったら、心配になって、もっと詳しいニュースが見たくなるだろう。
あるいは、東京に出張しようとしている人が、関東地方の交通機関の状況を詳しく知りたくなるのは、当然のことだ。
俺の友だちは、今回、法事に帰った名古屋で雪に遭遇し、さらに東京の交通機関が麻痺しているのを知って、俺のところに頻繁に連絡をしてきたよ。
俺は、テレビやラジオのニュースを聞いて、新しい情報を逐一メールで知らせた。
テレビやラジオがあるから、できることだ。
テレビのニュースは、フミヤのためにあるんじゃない。
新しい情報を知りたい、みんなのためにあるんだ。
東京だから、地方だから、というのは関係ない。
もちろん、普通の19歳が、父親の友人の説教がましい話を素直に聞くわけはなく、ほとんど無言のリアクションしか返ってこなかった。
父親に電話を代わってもらったあとで、友人に、ごめんな、余計なこと言っちまった、と謝った。
「いや、謝るのは俺の方だ。俺が相手をしてやらないから、おまえに不満をぶつけたんだろうな。まあ、何も言われないよりかは、いいんじゃねえか」
4年前、偶然東京駅地下のカレー屋で、20年ぶりに再会して付き合いが復活した、かつお節製造会社の経理部長は、豪快に笑った。
「若いやつみんなが、そうじゃないが、排他的なやつが多いからな。俺の息子も排他的なんだよ。自分のまわりのことにしか興味がないから、未知のものに対して臆病なんだ」
まあ、それはわからなくはない。
私も排他的だから。
先日の女子フィギュアで、金メダリストの点数に関して「疑惑」が持たれている、と書かれたネット記事を見た。
実際の競技を見ていないので、どこが「疑惑」なのか、私にはわからない。
ただ、キム・ヨナ選手が銀メダルに終わったことをキム・ヨナ選手の母国の方々が怒っているというのは、記事を呼んで理解した。
採点競技は、協会側が、どんなに「厳正に採点した」と主張しても、採点者の主観が想像できたり、大国の横やりが想像できるから、その主張にあまり説得力を感じない。
しかし、理性ある抗議はいいが、強圧的な感情の勝った抗議は、あまり気持ちのいいものではない。
キム・ヨナ選手の母国は、勝てば大騒ぎをするが、負けたら人のせいにする、という例が過去何度かあった。
抗議は、人としての権利だが、数を恃んだ理性の欠けた抗議は、正当な世論とは認められないのではないか。
排他的な国は、スポーツの世界でも排他的な感性で、価値観を歪めようとする。
採点競技は、うさん臭いので、私は見ないようにしているが、ネットの記事を見て、運良く日本がメダルを取ったのを知ったときは「アッパレ」をさし上げるようにしている。
私だけの考えだと思うが、運がよくても悪くても、その結果を受け入れるのが、採点競技だと思っている。
私も排他的な男だが、その程度の運命を受け入れる覚悟はある。
キム・ヨナ選手が表彰台で、銀メダルを持って微笑んでいる姿をネットで見た。
美しいな、と思った。
ロシアの選手も美しいな、と思った。
もちろん、イタリアの選手も。
(そして、浅田真央さんも)
技の美しさを見せる「ショー」で、美しい3人が栄誉を受けた。
それが、女子フィギュアというものではないか、と私は思っている。
少し話は変わるが、関東地方に2度目の大雪が降った日の夜、大学時代の友人の息子から、突然電話があった。
友人の息子は19歳の1浪。
「テレビのニュースで東京の雪の場面ばかり流すのは無駄じゃないか。大雪が降っていますなんて一度流すだけでいい。こっちだって雪は降っているんだ」
「俺たちには、東京の雪なんて関係ないし、そんなニュースはいらない。雪が降るたびに大騒ぎして電車が止まるなんて情けないと思わないのかね」
「こっちじゃ、20センチ程度の雪は当たり前すぎて何を甘ったれてるんだと思うよ。東京、ざまあ!」
若者らしい、偏ったご意見である。
それに対して、私は東京コンプレックスもいい加減にしろ、と説教した。
もちろん、そんなことを言われて「はい、わかりました」と答える素直な19歳など、おそらくこの地球上にはいない。
「俺たちの生活には、あんなニュース関係ないでしょ! 俺のとこは新潟だもの。東京のニュースなんかいらないよ!」と反発された。
ニュースは、フミヤ(友人の息子)のためだけに、あるのではない。
すべての人のためにある。
たとえば、遠くに暮らす親が、自分の息子が働いている東京で大雪が降っているのを知ったら、心配になって、もっと詳しいニュースが見たくなるだろう。
あるいは、東京に出張しようとしている人が、関東地方の交通機関の状況を詳しく知りたくなるのは、当然のことだ。
俺の友だちは、今回、法事に帰った名古屋で雪に遭遇し、さらに東京の交通機関が麻痺しているのを知って、俺のところに頻繁に連絡をしてきたよ。
俺は、テレビやラジオのニュースを聞いて、新しい情報を逐一メールで知らせた。
テレビやラジオがあるから、できることだ。
テレビのニュースは、フミヤのためにあるんじゃない。
新しい情報を知りたい、みんなのためにあるんだ。
東京だから、地方だから、というのは関係ない。
もちろん、普通の19歳が、父親の友人の説教がましい話を素直に聞くわけはなく、ほとんど無言のリアクションしか返ってこなかった。
父親に電話を代わってもらったあとで、友人に、ごめんな、余計なこと言っちまった、と謝った。
「いや、謝るのは俺の方だ。俺が相手をしてやらないから、おまえに不満をぶつけたんだろうな。まあ、何も言われないよりかは、いいんじゃねえか」
4年前、偶然東京駅地下のカレー屋で、20年ぶりに再会して付き合いが復活した、かつお節製造会社の経理部長は、豪快に笑った。
「若いやつみんなが、そうじゃないが、排他的なやつが多いからな。俺の息子も排他的なんだよ。自分のまわりのことにしか興味がないから、未知のものに対して臆病なんだ」
まあ、それはわからなくはない。
私も排他的だから。