先週、育った中目黒で郷愁に浸ったことを載せた。
そのあと、私は同じ東横線の自由が丘に足を運んだ。
自由が丘は、私の庭である中目黒、代官山、渋谷、恵比寿ほどは、なじんでいない。
ただ、大学時代、陸上部の同期が都立大学と自由が丘の間に住んでいた。その関係で、たまに、自由が丘の居酒屋で飲んだ。
当時は、今ほど「オシャレな街」という扱いではなかった。
ところどころにヨーロッパ風の町並みがあったが、あまり街としてのバランスはよくなかった。
さらに、驚いたことに、当時の自由が丘の喫茶店で出すコーヒーは、1杯600円とか800円したのだ。渋谷で250円から300円の時代ですよ。
コーヒーとサンドイッチなどを頼んだら、1500円などというところもあった。
オシャレな街を印象づけようとして、価格設定を高めにしたのかもしれない。
高額なものに意味を求める人にはいいかもしれないが、ビンボー大学生は、自由が丘でコーヒーが飲みたくなったら、天井が今にも落ちてきそうな場末の喫茶店に行くしかなかった。
そして、その恐ろしいほど退廃的な店構えを見ながら、「おお、風情があっていいな」と負け惜しみを言っていたのである。
私にとって、自由が丘とは、そんな街だ。
そんな街に、私は20年前、ひとりで降り立った。会社勤めに限界を感じているときだった。子どもの成長だけにしか、生き甲斐を持てない時期だった。
当時は、埼玉大宮市(今のさいたま市)に住んでいたから、結構な長旅だった。
10何年ぶりかの自由が丘。雑誌で「オシャレな街」「住みたい町」と言われていた頃だ。私の大学時代とは、街の色彩が変わっていた。
大学時代は、無理やりパステルをちりばめたような街並みだった。それが、落ち着いたモノトーンに変わっていた。
ヨーロッパには行ったことがないが、「うん、ヨーロッパっぽい」と思った。
自由が丘のランドマークは、当時から「自由が丘デパート」だった。その向かいの通りを歩いていくと、当時様々な店があった。そのあたりを私は徘徊した。
20年前のある夜のことだった。通りを歩いていると、バーを見つけた。どこにでもあるような無個性のバーだ。
何も主張していない。店の脇に看板があって、店名の下に王冠の絵が描かれていたのが、目に留まるくらいの目だたないバーだった。
そのバーの前で、私は行きつ戻りつを3回繰り返した。要するに、ためらったのだ。
バーに入ったことはあったが、いつも必ず友人と一緒だった。一人で入ったことはなかった。一人でバーに入るなどという気取ったことが、自分に似合うとは思っていなかったからだ。
屋台のおでん屋なら、ためらうことなく入れる。しかし、バーは無理だった。3回往復したあと「やっぱ無理」と逃げ出そうとした。冒険は、そこで終わると思われた。
しかし、そのとき、偶然バーのドアが、なぜか少しだけ開いたのだ。
私の耳にクイーンの曲が入ってきた。「アンダー・プレッシャー」だった。デヴィット・ボウイとの共作だ。
平穏な日々 いや そこにあるのは 土砂降りだけだ
道行く人 ただ 道を行く人よ
その歌詞につられて、バーに入った。カウンターだけのバーだった。カウンターはL字型で10席程度しかないように思えた。
先客は1人だけだったと思う。私より年上に見えた。
カウンターの中にいたのは、40歳前後の誠実そうな銀縁メガネの男1人だった。そして、壁には、クイーンのでかいポスターが3つ。奥に大きなタンノイのスピーカー。
その店には、30分程度しかいなかったが、その間、店内に流れていたのはクイーンの曲だけだった。
飲んだのは、ジャックダニエルのストレートだったか。それを飲みながら「キラー・クイーン」を聴いた。それまで、緊張で心臓が早鐘を打っていて、酒を注文するときも声が震えていたが、クイーンの曲と酒で落ち着いた。
少し離れて座る男は常連さんのようだった。バーテンダーに向かって、1985年の武道館の伝説的ライブが、どうたらこうたらと興奮して語っていた記憶がある。
私は、どの店でも常連さんになるのをそれまでずっと避けて通ってきた男なので、羨ましいな、と思った。
ジャックダニエルの2杯目で、「レディオ・ガ・ガ」「フラッシュ」。
3杯目を頼んだとき、「マイ・ベスト・フレンド」の次に「ザ・ショー・マスト・ゴー・オン」が流れた。聴き入った。
フレディ・マーキュリーの気高くて力強い声(じつは、このとき、フレディの命は尽きようとしていた。つまり、命がけの1曲だったのだ)。
フレディを支える3人のコーラス。少しファズの入ったブライアン・メイの壮大なギターソロ。心に突き刺さった。
何があったって ボクはチャンスに身を委ねるだろう
自由が訪れようとしている だけど 暗闇がボクの心の隙をうかがっていた
でも ボクは飛べるんだ 友よ
ショーは 続けなければ いけない
ボクは ショーとともにある
さあ ショーを 続けようか
その曲を聴いたとき、俺は独立しなければダメだ、と思った。
自分のショーを続けたいと思ったのだ。
20年前、私の背中を押してくれた、そのバーは、残念ながら、もうなくなっていた。
でも、私のショーは、今まだ続いている。
(最後に、誰も言わないから、自分に、独立20周年おめでとう、と小さく言うことにする)