東急東横線・目黒線・南武線・横須賀線が乗り入れる武蔵小杉駅に行ってきた。
中央線国立駅から武蔵小杉駅へ行くには、簡単なルートでは、お隣の立川駅で南武線に乗り換えて、始発に乗っていくのが一回の乗り換えで行ける一番楽な方法だ。
しかし私は、中央線で吉祥寺まで行って、吉祥寺で井の頭線に乗り換え、渋谷で東急東横線に乗り換える方法を選んだ。
理由は簡単。慣れ親しんだ路線に乗りたかったから。東京武蔵野に住んでいた頃は、井の頭線をよく利用した。子どものころ住んでいた中目黒では、東急東横線をよく利用した。その方が馴染みが深い。それに、都会の景色を見ると落ち着くという私の性格上の問題もある。
そして、井の頭線と東急東横線は、昼間は空いているということもこの路線を選んだ理由だ。どうでもいいことだが。
井の頭線。
思った通り空いていた。半分も埋まっていなかった。気楽な気分になった私は、バッグから文庫本を取り出した。車内では、ほとんどの人がスマートフォンの画面を覗いていたが、私は、電車内では、スマートフォンより文庫派だ。長い距離の場合は、爆睡派。
自慢にもならないが、還暦過ぎて、メガネもコンタクトレンズも使わずに文庫本を読めるというのは、すごいことではないかと思う。
私は、若い頃から右目が超弱視だった。だから、それを補うために、左目が頑張ってくれているのではないか、と勝手に推測している。
文庫を読み始めたとき、「チロリロリン」という電子音が聞こえた。そして、「もしもし」。
私の経験上、携帯のマナーモードをオンにしていない人は、ほぼ百パーセントの確率で、車内で電話に出る。
「えっ、なあに? ワンちゃんのエサを買ってきて欲しいの。エサは何が欲しいの。いま、メモするから、待っていて」
70歳くらいの女性が、そのあと延々とワンちゃんに関して、電話を続けた。
その最中に、また電子音。向かいの50前後の女性が、スマートフォンを取り出した。「もしもし」。
「あらぁ、ひさしぶり」から始まって、夏休みにハワイ旅行をするという話を声を潜めることもなく話し始めた。
マナーモードを知らないのか。あるいは、自分だけは特別なの、と拡大解釈をしているのか。
そんなことを思っていたら、また左から電子音。
「この間は、どうも。70近くになってゴルフがあんなに楽しいものだとは思わなかったですよ。また連れていってください」そのあと、くどくどしいゴルフ談義が続いた。自己申告を信じるなら70前くらいの男性だった。
文庫本読書に集中できない。
車両を移った。
マナー感覚に優れた多くの人は、電車内ではマナーモードが当たりマエダのクラッカー(古い)。
もちろん、この程度のことで、目くじら立てるのが無粋なのは、わかっテルテル坊主。
ただね・・・電車内は、電話ボックスじゃないんですよ。公共の空間で、つまらない話をするんじゃねえよ。電車降りてから、電話しなさい。それが、オトナだぞ。
気分を入れ替えて文庫本読書を再開した。
乗り換えた東急東横線も空いていた。そして、静かだった。平和だった。愛菜ーの車両だった。読書が進んだ。
平和な気持ちのまま、武蔵小杉駅に着いた。
目指すは、タワーマンションだ。
ご存知の方はご存知だろうが、ご存知でない方はご存知でないと思う。この川崎市中原区武蔵小杉は、近年高層マンションが林立しているホットスポットだ。
右を見ても左を見ても上を見ても未来を見ても(まだ開発途中が多い)高層マンションだらけ。高層マンションの花火状態や〜(意味不明)。
そのタワーマンションの一室を購入した知り合いがいた。大学時代の陸上部の同期カツラだ。正しい姓は、ショウジという。カツラは、30過ぎてすぐに髪の毛が寂しいことになった。そこで某アデランスを使い始めた。それ以来、カツラは「カツラ」がメインネームになった。
同じ薄毛でも、同じ陸上部の同期ハゲは、観念して頭を剃ったが、カツラは毛にこだわり続けた。それは、きっと人生観の違いだろう。ハゲは、「毛がなくてよかったね」のタイプだったのだろう(意味不明)。
カツラが、タワーマンションを買ったのは、初孫(ういまご)ができたのを機に長女夫婦と同居するためだった。
どれを見ても代わり映えのしないタワーマンションの1つに入った。
液晶テレビ付きインターフォンに顔をぐっと近づけて ピンポンすると、ドアが開いた。
エレベーターもご立派だった。そこで2、3日は暮らしてもいいと思える快適さがあった。35階に登った。地上140メートルくらいだろうか。めまいがした。
玄関でカツラが待っていた。会うのは2年ぶりくらいだ。カツラのおかげで、白髪が目立たないから、老けた感じはしない。それに比べて、私はこの2年で白髪を増量したから、娘から「ジジイに近ずいたな」と褒められる毎日だ。
リビングに通された。ひ、ひ、ひ、ひ、広末涼子・・いや、広い。ダイニングキッチンを合わせたら、私が住むマンションと同じくらいの広末涼子ではないか。
鼻がムズムズしてきた。まさかの・・・オックション!
リビングには、奥様と長女様、長女様の旦那様がいた。型どおりの挨拶をしながら、高級そうに見えるフルーツの詰め合わせを渡した。私は、新築祝いや引越し祝いは、必ずこれだ。意味はない。もし果物アレルギーの人がいたら、そちらで処理してください。
初孫の顔を見せてくれるか。
カツラが眉を下げて、デレーっとした顔で頷いた。
初孫様は、別室で寝ていた。可愛い。4ヶ月だというから、猿から人間に切り替わった頃だろう。
天使だな、と私が言うと、カツラは「ああ、俺もそう思う」と目を潤ませた。
新しいニックネームを考えた。カツジイだ。
カツジイとリビングに戻った。リビングのソファに座ると、改めて家族を紹介された。
奥様、長女様、そして、長女の旦那様。
カツジイが言った。「婿さんの実家は金持ちでな。このマンションを買うとき、かなり援助してもらったんだよ」
カツジイ、他人にそういう生々しいことを言うなよ。白けるじゃないか。
奥様が気を利かせて、大酒飲みの私のためにキリンラガーの瓶を持ってきてくれた。遠慮なくいただきます。飲みながら、カツジイと近況を語り合った。
カツジイは、大学を出たあと証券会社に勤めた。しかし、その証券会社が消滅。その後も証券会社を渡り歩いた。だが、合併を繰り返して窮屈な状態になったので、45で会社を辞め、都内のシティホテルチェーンに転職して今に至る。
今の会社では、カツラだということがバレていないという。日本の技術、恐るべし。
そんなことを話している間、皆さまスマートフォンを取り出して覗き込んでおられた。
奥様は別室で飼っている愛犬2匹のそばにカメラを取り付けて、送られてくる映像をご覧になっていた。ときどきスマートフォンに向かって「ジョイくーん」などと話しかけていた。
長女様は、やはりお子様の近くにカメラを取り付けているらしく、「アリサ、よく寝てるわ」などとつぶやいていた。
長女様の旦那様は、1分に1回程度スマートフォンを手にとって、何かを確かめていらっしゃった。旦那様のお父様は、神奈川県の私立高校の経営をしておられる。そして、旦那様は専務理事だという。年は28。若いね。金持ちだね。
さて、皆さま私よりもスマートフォンに関心がおありのようなので、じゃあ、これで、と私は腰を上げた。
すると、カツジイが「なんだよ、せっかくだから何か食べていってくれよ。ただで帰すわけにはいかないよ。友達がきたんだから」と言った。「好きなものを言ってくれ、出前を取るから」
そういう面倒くさいことになると思ったから、昼時を避けて2時前後に訪問したのに、おまえら、まだ食っていなかったのかよ。
出前か。俺は人をもてなすときは、絶対に手作りを出すけどな、と思ったが、もちろんそんなことは言わない。
それに、人が奢ってくれるというのを拒む勇気が私にはない。
いや、帰るから。「いいから食べていってくれよ」。いや、今日は、いらないから、などという無駄なコントが嫌いだということもある。
じゃあ、ピザを食わせてくれ。
「いいのか、そんなもので? 寿司とか、うな重じゃなくて」
俺はおまえと違って「そんなもの」が好きなんだよ。
ピザ屋が近くにあったのか、20分くらいで「そんなもの」が届いた。「そんなもの」の他にパスタやサラダ、ラザニアも頼んだようだ。
カツジイが気を利かせてまたキリンラガーを持ってきてくれた。ありがとね。ビールを飲みながら「そんなもの」を食った。美味かった。ごちそうさま。
しかし、私のまわりの景色は、少し私の予想を超えていた。
カツジイは、ピザを食いながら、スマートフォンで株価をチェックしていた。奥様はお犬様の画面に夢中。長女様は、お子様に夢中。長女様の旦那様は、ときどきかかってくる学校からの電話に、席を立って応対していた。
それに対して、私は左ケツのポケットに入れたiPhoneを一度も出さなかった。2回ケツが震えたけど、私は知らんぷりしたぞ。
この家では、俺はゲストじゃなかったんだ〜!
スマートフォンよりも下の扱いだったんだあ〜!
ごちそうさまでした、と言って席を立ったときも、奥様、長女様、長女様の旦那様は、少し顔を上げて「どうも」と軽く頭を下げただけで、視線はすぐにスマートフォンに。
カツジイだけが、スマートフォンで株価をチェックしながら、玄関までエスコートしてくれた。
そして、薄い言葉の「また、遊びに来てくれよ」。
スマートフォンに操られる今どきの家族様。
冷静に考えると、カツラにとって、俺の序列がこの程度だったってことですよね。ただ、見せびらかしたかっただけ。
今回の私は、「招かれざる客」(本当は招かれていたんですけどね)。
「招待するから」というカツラの言葉を信じた俺がバカだった。
マンションを出て、高い建物を見上げながら思った。
拝啓 ゴジラ様 次に日本に上陸するときは ぜひ このマンションを真っ先に破壊してください
(このあと私は、家に帰るまで一度もiPhoneをケツから出さなかった)