一説によると、犬も猫も感謝の心を持っていると言う。
しかし、感謝の心の総量が多いのは、やはり人間だろう。
感謝。
犬猫以下の私にも感謝の心は、人並み以下にある。
世田谷の伯父が、まず最大の感謝の対象だ。
祖母、父母は、昭和27年に島根県出雲から東京にやってきた。そのとき、我が一家は、すでに成功して世田谷区下馬に150坪の家を持つ伯父の家に居候したのだ。
150坪の土地に、6DKの平家と12畳ほどの離れを建てて暮らしていた伯父家族。その離れに我が一家は移り住んだ。離れには台所がなかったので、伯父はわざわざ台所を作ってくれた。風呂は母屋の風呂を借りたという。
そこに、祖母、父母は3年余り暮らした。ただ、父は途中から家を出て、新橋のアパートに移り住んだが。一流会社に勤めながら、稼ぎを全く家に入れなかった男。一家が東京に出てきたのは、「俺は東京で小説家になる。小説家は人の道を外れてもいいんだ」という、この男の身勝手な考え方からだった。
「申し訳ないです」この男の兄である伯父は、祖母と母に、いつも謝っていたという。
東京に来て3年が経ったころ、母のお腹の中に命が宿った。
居候のままではいけないと思った祖母は、島根県で師範学校の教師をしていたときの教え子が、東京で土建屋さんをしているのを思い出して、彼に頭を下げた。
「東京に良い物件を知りませんか」
教え子はすぐに中目黒の一軒家を探し出してくれた。いま中目黒は一坪百万円以上する高級住宅地だが、その当時は祖母の貯金で買える程度の田舎だった。
母は、その新しい家で子どもを産んだ。私の姉だ。そのとき、助産婦さんを紹介してくれたのが下馬の伯父だった。その後も伯父は、祖母と母の面倒をよく見てくれた。
「弟のこと、申し訳ないです」と言いながら。
その後に私が生まれると、伯父はさらに頻繁に中目黒の家に来て、何かと気遣ってくれた。正月前などは、アメ横で新巻鮭や筋子、餅、蟹などを買って、我が家に直接届けてくれた。
お年玉もくれた。
他に、私一人、遊園地や動物園、潮干狩り、東京タワーなどにも連れて行ってくれた。幼かったから、あまり覚えていないが。
ただ、伯父が懸命に父親の代わりをしてくれているということは、幼心にもわかった。
小学校に上がる前、私は教育者だった祖母から言われた。
「あなたはバカだから、先生の言うことをよく聞いて学びなさい。聞いていれば、あなたは絶対にわかるようになります」
バカだった私は、授業を真面目に聞いて、わかるようになった。
伯父が言った。
「サトル、キミが家族を守るんだ。ボクが見る限り、キミはそれができる子だ。キミのお祖母さんが言っていたぞ。『あの子は、とても自立心が強い子だ。あの子の将来は明るいですよ』ってな。キミが家族を支えてくれ」
何を言っているか、さーーーぱりわからなかったが、私は賢いふりをして頷いた。
それから先も、伯父は私を可愛がってくれた。
普通は、運動会や学芸会、参観日などは親が来るものだが、役立たずの男のせいで、月曜から土曜までフルタイムで働いていた病弱な母は、日曜日には疲れ切って学校行事に来る体力までは残っていなかった。一日中眠っていた。
祖母は、土日はボランティアで孤児院で勉強を教えていたので、来られなかった。
毎回ではないが、運動会と参観日には、伯父と伯母が当時としては珍しい外車フォードで来て応援してくれた。しかも運転手付き。
どんだけ儲かっていたんだい。
そんな伯父だったが、私が小学6年のとき、突然脳溢血で死んだ。
人間って、こんなに簡単に死ぬんだ。
先週まで、とても元気で、「サトル、今度後楽園に野球を見に行こうな」と言っていたのに。
伯父さん、俺、ジャイアンツ嫌いなんだよね。
「ああ、それじゃあ、神宮球場だな」
そんな会話を交わしたばかりだったのに。
父親代わり、というより私は本当に父親だと思っていた。
「なあ、サトル、父親を恨むなよ。あいつは、きっと病気なんだ。仕事はできて他のことにも才能はあるが、家庭を持っちゃいけないやつだったんだよ。キミにはわからないかもしれないが、世の中には、いるんだよ。そういうやつが」
「発達障害」という症状が、明らかではない時代だった。
「だから、ボクがあいつの代わりになる。不服かもしれないが、我慢してくれ」
不服なんかない。
私は、伯父から、たくさんの父性を貰った。
伯父が「私の父」である時間は短かったが、父親の愛情は、私の毛細血管の隅々にまで行き届いていた。
そして、伯父の安らかな寝顔は、今も私の網膜に焼き付いていた。
伯父に感謝。
本当に感謝しかない。
伯父が死んで今年50年になる。
12月4日。世田谷区下馬のでっかい家で法要があった。
法要が終わると、伯母が私を伯父の生前の仕事場だった部屋に招き入れた。
漫画家だった伯父の仕事場は、当時のままだった。
むかし、伯父が言った。
「ここは、家族にもなるべく見せないようにしているんだ。ボクにとって、ここは戦場だからね。戦場を家族に見せる武将はいないよね。でも、キミには一度だけ見せてあげる。男の戦場をね」
それは、とても綺麗に整頓された戦場だった。幼いなりに、「男の覚悟」が籠った場所だと感じた。身が引き締まった。
さらに、伯父が言う。
「ボクは、どんなに具合が悪くても、家族の前では顔に出さないんだよ。態度にも出さない。だって、ボクは大黒柱だから、家族を心配させてはいけないんだ」
大黒柱という概念は、令和の時代には、もうないのかもしれない。時代は、移り変わる。そんなアナクロニズムな言葉は、消えたっていい。
だが、私の脳細胞には、その言葉が強く残っていた。
私もいま何があっても家族にも他人にも弱みを見せない生き方をしていた。
それはきっと伯父の生き様を真似たからだ。
大黒柱。
大黒柱であるがゆえに、具合が悪いことを隠して伯父は若くして死んだ。
簡単に死んだ。
伯父さん、いや、親父さん、あなたは本当に格好のいい人でした。
でも、私は、あなたのように格好よく死ねません。
家族の姿をもっと見ていたいです。守りたいです。
まだ俺は死ねない。
あなたへの感謝は永遠ですけど、私は、あなたのようには死ねない。
感謝、といえば、このブログを読んでくださる方にも、私は感謝の思いを持っている。
こんなダラダラと長いだけの「役立たずのブログ」を読んでくださる方が、少なからずいる。それは、私に勇気を与えてくれる。
さらに、もっと頻繁に更新して、というリクエストをくださる方もいる。
ありがたいことだ。
ただ、世の中には、フリーランスは時間が自由だよね、という誤った観念を持った人が多い。でも、皆さんは「お客様は我が儘である」という当然の摂理を知らない。
その我が儘なお客様を一人でマネージメントするには、おのれの時間を犠牲にしなければいけないのだ。さらに、私はバカなフリーランスなので、時間の使い方を知らない。そのため「役立たずのブログ」を増やすことができない。
日曜日の朝、4時半から5時半が、私のブログタイムだ。ここしか時間がとれない。
意外にも反響が多いことに感謝をしつつ、これからも頑固に週1回のブログライフを続けていきたいと思う。
感謝です。