みんな大好きイナバ君。
11月の初めごろから、イナバ君からLINEで「誕生日はMさんの大好きな牡蠣でお祝いしましょう。楽しみだなあ」というお誘いを受けていた。
さらに誕生日一週間前も「牡蠣たべよ牡蠣たべよ牡蠣たべよ牡蠣クケコー」狂ったか。
ただ、残念ながらタイミングが合わなかった。
私の誕生日前後は、イナバ君の奥さんが家にいなかったので、イナバ君が2人の子どもから世話を受けなければいけなかったからだ。
イナバ君の奥さんは、仲間とよくボランティアに出かけた。同い年の奥さん方3人と学生やフリーターの人たちを何人か募って、災害に限らず困っている人がいたら、軽トラック2台を躯って参上するのである。
今回は、本格的な冬が来る前に被災地のお手伝いをしようと千葉県、茨城県を6日間かけて回った。10月に2回も行っているのに。
私には真似ができません。尊敬するしかない。
イナバ君の奥さんは、「莫大」が4乗つくほどの父親の遺産を受け継いで、呆れるほどの恵まれた環境にいるのだ。もっと傲り高ぶって暮らしてもいいのに、質素で献身的なくらしをしていた。趣味は家庭菜園。
イナバ君が言う。
「うちの奥さん、ボランチに夢中なんですよ」
ボランチは、サッカー、バレーボールだよね。
私が思うに、奥さんの最大のボランティアは、イナバ君と結婚したことだ。
私なら、こんなスットコドッコイと結婚したくない。
私とイナバ君との出会いは、18年くらい前だろうか。仕事で精密なイラストが必要になった私は、知り合いに、誰か知らんかよとリクエストした。
友人は「才能のあるやつを知っているが、頭のネジがずれているんだよね。ただ、おまえとは合うかもしれんな。ずれたもの同士、仲良くやってみ」と褒めてくれた。
初めて会ったとき、午前中だったのに、「こんばんわ」と挨拶された。
中央線阿佐ヶ谷のマクドナルドで、「軽く食べる?」とタメ口で言われた。
ああ、軽くね。
私はマックフライポテトのMとホットコーヒーを頼んだ。イナバ君は、「軽く」と言いながら、テリヤキバーガーとマックフライポテトのL、チキンナゲット、Lサイズのコーラだった。
潔いくらいのズレ加減だった。
その後も、イナバ君はタメ口で話しかけてきた。話してみると、一般常識を知らないこともすぐに判明した。
「今日ってさ、『おおやすよしび』だよね。なのに、バーゲンあまりやっていないよね」
おおやすよしび? 初めて聞く日本語だぞ。漢字で書かせてみた。
大安吉日。
この日は、どこの店でも大々的にバーゲンセールをして、みんなが喜ぶ日だとずっと思っていたのだ。
感心した。こんな読み方と受け止め方をする人が世の中にはいるのだ、という新しい発見があった。
これは、貴重な原石ではないのか。
興味を持った私は、たまに阿佐ヶ谷のマクドナルドにイナバ君を呼んで、この原石を磨くことにした。
目上の人に対する言葉遣いを少しずつ矯正した。言葉は大事だ。言葉の使い方で、印象は良くも悪くもなる。
たとえ、アホだとしても、愛すべきアホと憎らしいアホでは、メルカリに出されたとき、確実に食いつきが違う。
イナバ君の奥さんになる人に、結婚前に会ったとき、私の考えを述べると、「ああ! 確かに原石ですね。今はデコボコ石ですけど」と言って、手を叩いた。
二人で磨きませんか、と私が言うと「あ、それはお任せします」と拒否された。
それから私は、10年と42日の歳月をかけて、イナバ君の言葉遣いを直した。その結果、IQの低い高校生並みの言葉遣いが、日本に永住して2年11ヶ月経ったドイツ人並みの日本語にはなった。
ただ、常識を知らない部分に関しては、矯正しないようにした。そこを直すとイナバ君の良さが失われると思ったからだ。
アホで愛すべき原石。
「食べましたねー」渋谷の牡蠣バーで、イナバ君が満足そうな笑みを見せた。
確かに食った飲んだ。イナバ君に支払ってもらったが、二人分で2万円弱だった。
ランチで2万円は、後ろからハリセンで叩かれても仕方ないレベルの贅沢だ。痛いぞ、あれは。
渋谷の雑踏を歩きながら、後ろからの攻撃に備えつつ、イナバ君に聞いた。
そう言えば、キミ、メルセデスで来てたよね。さっき、ワイン飲んでなかった? それは、いかんのじゃないか。飲んだら乗るな、乗ったら波乗りジョニーでしょうが。
「あー、それは大丈夫です。うちの奥さんが今、渋谷で『ボランチの進歩人』に出ていまして、それが2時半に終わるんですよ。だから、帰りの運転は奥さんがします。ご心配なく」
進歩人、シンポジウムだよね。ボランティアのシンポジウム。
奥さんと駐車場でオチあった? 落ち合った。
奥さんは、薄いピンクのスーツを着て、凛々しく挨拶をした。
「ビリー君のおもり、ご苦労様でした」
イナバ君が嬉しそうに言う。「うちの奥さんって、松嶋菜々子に似てないですか?」
イナバ君、返事に困るようなことを言うなよ。「まつし」くらいまでは似ていると思うけど。
奥さんの運転で、国立へ。
車中で、イナバ君の奥さんが将来計画している、老人ホームの話になった。
ボランティア仲間と介護の行き届いた小ぶりの老人ホームを作ろうという計画を立てているのだ。
土地はもう確保していた。資金は、ほとんど奥さんが出す。その準備のために、いろいろな人の知恵をお借りしている最中だ。
法律的、実務的なことをクリアして、5年後を目処に実行に移したいという計画だ。
その志が、すごいね。使命感が、すごいね。私だったら、あんなに金持ってたら、一生寝て暮らすけどね。
そのとき、アホのイナバが言った。
「Mさん、その老人ホームができたら、一緒に入りましょうよ。楽しいぞー」
あのね、イナバ君。前も言ったと思うけど、俺とキミは14歳離れているんだよね。たとえば、俺が70歳でホームに入ったとしても、キミはまだ56だよ。老人ではないよね。
「何を言っているんですか、Mさん。老人ホームに入ったら、もう老人ですよ!」
「キャハハハハーン」奥さんの笑い声が、車内にこだました。
原石は、完全に輝いたね。