武蔵野から国立に転居したとき、一つの問題が持ち上がった。
それは、「割ばし問題」だ。
6年前に、ヨメの母親(私にとっては義母)が死んだ。
その義母は、8年前に、埼玉のメガ団地に住む我が家にやってきた。
認知症が進んで、三鷹での一人暮らしが難しくなったからだ。
ヨメには、上に兄が二人いたが、その兄たちは幼い頃義母から育児放棄を受けた。
そんなこともあって、兄たちは実の母親を引き取ることをせず、我々に押しつけたのである。
(ヨメだけは、育児放棄を受けなかったようだ)
その認知症が進んだ義母の日課は、朝の10時に、団地から1.2キロ離れた100円ショップに行くことだった。
そして、必ず割ばしを一袋買うのだ。
20膳入りの割ばしだった。
それが、徐々に溜まっていった。
その義母は、困ったことに、私の仕事を理解できない人だった。
パソコンで仕事をするという職業があることが想像できない人だった。
だから、「あいつは、一日中テレビで遊んでいる」と思い込んだ。
しかもヨメ一人を働かせて、ヨメの稼ぎで生活していると思い込んだ。
冷静に考えればわかることだが、週に4日のパートで一家4人が食えるほど、ヨメのパート代は高くない。
しかし、それをまわりの人たちは、簡単に信じたのだ。
義母もヨメも巨大宗教の信者だった。
信者さんは、同じ仲間の言うことを疑わなかった。
その結果、団地内を歩くと、義母のお仲間に「あんた、いい年をしてなぜ働かんかね」「奥さんだけを働かせて恥ずかしくないかね」などということを遭遇するたびに言われた。
悪意ある噂話は、インターネット上だけでなくても、簡単に広まるようだ。
私は、ノイローゼ寸前になった。
(家族のために懸命に働いているのに、何の仕打ちだよ! と思った。団地全体を爆破したいと本気で思ったほどだ)
その私の異変に最初に気づいたのは、当時中学2年の娘だった。
「おまえ、限界に近いな。ボクに考えがあるんだけどな」と言い出したのだ。
「ばあちゃんを三鷹に返さないか。そして、うちらが引っ越して、ばあちゃんの面倒を見るんだ」
しかし、学校の友だちと離ればなれになるぞ、それでもいいのか。
「我が家の大黒柱は、間違いなくおまえだ。ボクは、おまえには胸を張っていてもらいたいんだよ。でも、ここではもう無理かもしれない」(父親思いの娘は、父親が謂れもない仕打ちを受けていることに心を痛めていたのだ)
だが、娘のこの提案は、ヨメと息子の大反対にあった。
「ここで15年間築き上げてきたものを壊すつもりなの!」
しかし、そう言われても娘はめげなかった。
娘は、既成事実を積み上げることにしたのだ。
まず、クラスの友だちと吹奏楽部の部員たちに「私、武蔵野に越すの」と告げた。
担任と吹奏楽部の先生にも告げた。
ご近所の人たちにも言い回った。
そして、私はその間に、美容院などを経営している顧客に、あなた様が持つアパートに住まわせてチョンマゲとお願いをし、承諾を得た。
三鷹市にも連絡を取って、介護サービスセンターを紹介してもらい、引っ越してすぐサポートを受けられるように手配した。
外堀を埋められたら、ヨメも息子も諦めるしかなかった。
そうして、7年前に、我が一家は、義母が所有する三鷹のマンションから1.5キロ離れた武蔵野に越すことになった。
埼玉のときと同じように、義母の悪意ある噂話を周りが信じることが心配だったが、三鷹の人たちは常識的な人が多かったようだ。
「いまは、パソコンで仕事をするのが当たり前ですから」と言って、義母の言葉を笑い飛ばした。
娘のおかげで、私の暮らしは平静を取り戻した。
しかし、その9か月後に、義母は、火事で死んだ。
危篤と言われたとき、義母の実の子どもたちは、仕事を理由に駆けつけなかった。ヨメも、花屋のパートを休めないと言って、病院には行かなかった。
結局、義母の最後を看取ったのは、一番折り合いが悪かった私と娘の二人だけだった(実は義父のときも私ひとりが看取った)。
娘とふたり、義母の耳元で「逝くなー」と叫んだが、義母が私たちの言うことなど聞くはずがなかった。
それは、2011年1月23日、午前7時26分のことだった。
マンションの室内は、ほぼ全焼した。
しかし、奇跡的に焼けなかったものが3つあった。
一つは、13冊のアルバム。
一つは、死んだとき、手に握りしめていたキーホルダー。
そして、もう一つは、2つの段ボール箱に詰められた割ばしだった。
どれも煤をかぶってはいたが、中は焼けていなかった。
13冊のアルバムは、きっと義母がこの世に残しておきたかったものだったはずだ。
キーホルダーも、思い出の品だから残しておきたかったのだろう。
では・・・・・割ばしは何のために?
武蔵野から国立に転居するにあたって、その割ばしをどうしようかと家族で話し合った。
ヨメは「捨てましょう、意味がないんだから」と言った。
しかし、私は抵抗した。
お義母さんが、人間としての認知力が衰えてきたと感じたとき、きっと割ばしの存在だけは、ハッキリとわかったんじゃないかな。
他のものは、認識が難しくても、割ばしだけは認識できた。
逆に言えば、割ばしが認識できなかったら、自分はもうダメだと思ったんじゃないだろうか。
つまり、お義母さんは、毎日割ばしを買うことで、自分を確認していたんじゃないか。
認知症と闘っていたんじゃないのか。
そう思ったら、たとえ一本一本は軽い割ばしでも、そこに込められた思いは、決して軽いものではないと俺は思うんだ。
だから、持っていこう。
そう言ったら、だれも、反対しなかった。
いま、その割ばしの入った段ボール箱は、ヨメの部屋の大きな仏壇の横に積まれていて、ヨメは毎朝、祈っていた。
しかし、世界で2番目に罰当たりな私は、義母の葬式で手を合わせることもせず、墓参りでも手を合わせたことがなかった。
もちろん、仏壇に手を合わせたこともない。
それだけは、これからも絶対に、変わらない。
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