大学4年の娘の友だちがタトゥーを入れたらしい。
目立たないところに、彼氏の名前を入れたという。
「やめろって言ったんだけど、舞い上がっているから聞かないんだよね」と嘆く娘。
タトゥーがいいか悪いかは、個人の価値観の問題だから、第三者が何を言っても説得は難しいと私は思う。
やめろ、と言われたら、よけい感情に火がついて、逆効果になる可能性がある。
人間とは、「反発する生き物」だ。
説得は、反発の引き金になる。
おそらく何を言っても無駄だったのではないか。
入れ墨に関しては、ほろ苦い思い出があった。
小学校5年の時だった。
私は、友人3人とよく近所の空き地で、キャッチボールをしていた。
ほとんど毎日そこでキャッチボールとバットを使ってのノックをしていた。
その空き地の隣に、マンションが建つことになった。
そして、工事現場の脇には、飯場(作業員が寝泊まりする場所)があって、私たちは、そのうちの一人の若い男性と仲良くなった。
「俺、中学のとき、野球をやっていたんだよ。だから、混ぜてよ」と言われた。
ガッチリした体格で、明るくて声のでかい人だった。
私たちがいい球を投げたり、いいスイングをしたりすると、「ナイス!」と言って弾けるような笑顔で褒めてくれた。
だから、私たちは、彼のことを「ナイスさん」と呼んで、慕っていた。
ナイスさんは、20代前半だったと思う。
動きがキビキビしていて、表情が豊かで、何よりも子ども好きだった。
愛すべき人だった。
4月から6月。
季節は過ぎて、暑くなってきた。
いつも長袖のシャツを着て、私たちと遊んでくれたナイスさん。
6月半ば、梅雨の晴れ間に、耐えられないくらい暑い日がやってきた。
そんな時でも、私たちは空き地でキャッチボールをした。
ナイスさんも「今日は暑いなあ」と言いながら、私たちの相手をしてくれた。
そして、あまりにも暑かったので、ナイスさんは「悪いな、裸になってもいいかい?」と私たちに聞いたのだ。
「いいよ」と答えた。
長袖のシャツを脱いだナイスさんの背中には、般若の入れ墨があった。
それを見た私たちは驚いて、「わわわ」と言いながら逃げ帰った。
それ以来、私たちがその空き地に近づくことはなかった。
それから2か月が経って、マンションは完成し、飯場はなくなった。
私たち4人が2か月ぶりに空き地に足を踏み入れたとき、当然のことながらナイスさんの姿はなかった。
あったのは、空き地の水飲み場に残された木片だけだった。
その木片に書かれた文字。
「楽しかったよ、ありがとう。4人の野球少年たち」
ナイスさんが、書き残した言葉だった。
それを見たとき、私たちは、とても悲しい気持ちになった。
いつも明るく振る舞って、私たちを愛してくれたナイスさんを背中の入れ墨を見ただけで、嫌悪したこと。
入れ墨があってもナイスさんはナイスさんなのに、なぜ私たちはそれを受け入れることができなかったのか。
「俺たちは、ナイスさんを傷つけたんじゃないかな」
いつもは軽く感じる軟式ボールが、とても重たく感じられて、私たちはすぐにキャッチボールをやめた。
4人の耳には、ナイスさんの「ナイスだよ!」が、こだましていたと思う。
その「ナイスだよ」の声は、今も私の耳に強く残っていた。
「入れ墨」「タトゥー」を思うとき、私にはナイスさんの「ナイスだよ」が強く思い浮かぶのだ。
それを思うとき、タトゥーにも人生があるのだな、と強く感じる。
ナイスさんの入れ墨は、きっと彼の人生にとって必要なものだったのだ。
ヤクザさんがする入れ墨と一般の方たちがする入れ墨が、どう違うのかは、わからない。
だが、そこに数々のドラマが存在するとき、無闇に否定するのもどうかな、とは思う。
ナイスさんが、その後、どんなドラマを作ったのかはわからないが、まぶしすぎるほどの笑顔をまわりに振りまいて、人を幸せにしたことを私はいま信じて疑わない。
入れ墨を見て、ビビって逃げた私が言っても説得力はないかもしれないが・・・。
僕の友人が「親が泣く、とか、温泉には入れない、とか、そんなんがなかったら、バンバン入れたい」って言ってました。
入れ墨がある種の覚悟の表明、としてあるのは「消せない」からですね。
化粧や髪を染める。とはそこが違います。
メリットとデメリットの折り合いがつけられないくらい「何をするかわかんない」度を世間は嫌がるんでしょう。
今、反社会的じゃなくなっても、取り返しのつかない「状態」が入れ墨なんでしょう。
人それぞれでしょうが、僕自身は仮に「気軽に消せて」も入れ墨は入れません。