たとえば、そのジャンルの音楽を聴かない理由に、「クラシックは、よくわからない」「ジャズは、難しくてわからない」などがある。
ただ、私は「わからない音楽」などはない、と思っている。
音楽は楽しむためのものだから、「わかる」「わからない」で聴くのではなく、楽しめるか楽しめないか、で聴くものだと思っている。
さらに、突き詰めて言うなら、その音楽が「好き」か「嫌い」かで聴くものだと思っている。
私は演歌が嫌いだから、絶対に聴かない。
あんな後ろ向きな歌は、聴く価値がないと思っている。
歌い方も、誰もがカエルがつぶれたような声だから、心地よくない。
しかし、私の得意先の66歳の社長は、逆に「演歌しか聴かない」と断言している。
「ほかの歌は、みんな子どもの歌だよ。大人の鑑賞に耐えられない」と言い切る。
その断定的な口調を私は嫌いではない。
音楽を「好き」「嫌い」だけで判断しているところが、とても潔くていい。
「わからない」などと言って、逃げないところが男前だ。
私が嫌いなのは、演歌だけ。
あとは、どのジャンルのも、とりあえず聴く。
ただ、当然のことながら、ジャンルの中でも、気持ちが受け付けないものがある。
クラシックは、マーラーは無駄に荘重すぎて聞かないが、バッハやチャイコフスキーは、リズミカルな楽曲も多いので、心地よく感じる。
ジャズは、ピアノがメインのものは、好きではない。
ピアノは、メロディアスだという人が多いのだが、私にはなぜか、そう聴こえない。
ピアノの軽いスイング感が、浮ついているようで嫌なのだ。
むしろサックスやトランペットの方が、メロディアスに感じる。
J-POPでは、いわゆる大御所歌手の歌は聴かない。
たとえば、松任谷由実、中島みゆき、小田和正、井上陽水、吉田拓郎、矢沢永吉、長渕剛、さらまわし(さだまさし?)など。
彼らの歌は、たいした内容でもないのに、言葉をこねくり回して「いい歌だから感動しろよ」という感じに、私には聴こえるのである。
他に、昔のフォークソングも聴かない。
あれは、どうでもいいことを女々しい表現でうつむいて歌うという、ほとんど演歌と同じ次元の歌としか思えないのだ。
演歌とフォークに共通しているのは、「現実逃避」という点である。
それは、私には、もっとも音楽にふさわしくない要素だと思えるのだが、「思い出」というフィルターを通すと、人は、そんな曲でさえも名曲だと思ってしまうものらしい。
また、K-POPが嫌い、という人も多い。
高校一年の娘のクラスの男の半数以上は、K-POPを嫌っていると言う。
男は単純だから、相手が高飛車な態度に出ると、無意識に反発するところがある。
そこに民族主義、国家主義が入り込んでくるから、なおさら敵視するのではないかと思う。
まあ、嫌うなら徹底的に嫌いになってもらいたいものだが、「KARAは、いいよな」という奴がいるらしく、娘は「そこが腹立つ!」と怒っている。
ちなみに、娘は、少女時代が韓国でデビューした時からのファンである。
(民族主義に凝り固まった方、怒らないでください。娘が最も尊敬し、神と崇めているのは、椎名林檎様ですから)
私はと言えば、先程も書いたように、音楽を「好き」「嫌い」で聴くから、それがどこの国の音楽だということには、こだわらない。
K-POPでは、BIGBANG(ビッベン)、2EN1(トゥエニワン)、BoA、SECRET(シクリ)が、好きだ。
そのほかのK-POPについては、似通ったダンス音楽ばかりなので、「誰が歌っても同じ」に聴こえる。
それに、「歌担(うたたん・歌担当)」と言われるヴォーカルが、音の最後を必要以上に同じ音階で引っ張る歌い方が好きではないので、聴いていて、時に鳥肌が立つことがある。
あの歌い方が「上手い」「格好いい」という人とは、私は明らかに価値観が違う。
あれは、はっきり言わせてもらうが、自己満足だ。
あんなに無意味に音を伸ばさなくても、音楽世界は表現できる。
音楽に抑揚は必要だが、音を伸ばしたからといって、抑揚はつかない。
あれは、無駄だ。
セリーヌ・ディオンが音を伸ばすのは、「ここぞ」という時だけだ。
「ここぞ」という時だけ、心を燃焼し尽くすような昂りを声に込めて、気を吐き出す。
彼女は、ただ音を伸ばしているわけではないのだ。
「歌の魂」を吐き出しているのである。
安易に音を伸ばせばいいというものではない。
K-POPアーティストの歌には、様式、模倣としての「気」はあるが、プロの歌い手としての「気」は感じられない。
そこが、嫌いと言えば、嫌いな点か。
要するに、私が音楽を聴くときは、「好き」「嫌い」に徹しているということ。
たとえ、好きなアーティストが歌った歌でも、自分の感性に合わなければ、嫌いと判断する。
盲目的に「好き」ということにはならない。
私は、そんな風に、音楽を聴いている。
ただ、私は「わからない音楽」などはない、と思っている。
音楽は楽しむためのものだから、「わかる」「わからない」で聴くのではなく、楽しめるか楽しめないか、で聴くものだと思っている。
さらに、突き詰めて言うなら、その音楽が「好き」か「嫌い」かで聴くものだと思っている。
私は演歌が嫌いだから、絶対に聴かない。
あんな後ろ向きな歌は、聴く価値がないと思っている。
歌い方も、誰もがカエルがつぶれたような声だから、心地よくない。
しかし、私の得意先の66歳の社長は、逆に「演歌しか聴かない」と断言している。
「ほかの歌は、みんな子どもの歌だよ。大人の鑑賞に耐えられない」と言い切る。
その断定的な口調を私は嫌いではない。
音楽を「好き」「嫌い」だけで判断しているところが、とても潔くていい。
「わからない」などと言って、逃げないところが男前だ。
私が嫌いなのは、演歌だけ。
あとは、どのジャンルのも、とりあえず聴く。
ただ、当然のことながら、ジャンルの中でも、気持ちが受け付けないものがある。
クラシックは、マーラーは無駄に荘重すぎて聞かないが、バッハやチャイコフスキーは、リズミカルな楽曲も多いので、心地よく感じる。
ジャズは、ピアノがメインのものは、好きではない。
ピアノは、メロディアスだという人が多いのだが、私にはなぜか、そう聴こえない。
ピアノの軽いスイング感が、浮ついているようで嫌なのだ。
むしろサックスやトランペットの方が、メロディアスに感じる。
J-POPでは、いわゆる大御所歌手の歌は聴かない。
たとえば、松任谷由実、中島みゆき、小田和正、井上陽水、吉田拓郎、矢沢永吉、長渕剛、さらまわし(さだまさし?)など。
彼らの歌は、たいした内容でもないのに、言葉をこねくり回して「いい歌だから感動しろよ」という感じに、私には聴こえるのである。
他に、昔のフォークソングも聴かない。
あれは、どうでもいいことを女々しい表現でうつむいて歌うという、ほとんど演歌と同じ次元の歌としか思えないのだ。
演歌とフォークに共通しているのは、「現実逃避」という点である。
それは、私には、もっとも音楽にふさわしくない要素だと思えるのだが、「思い出」というフィルターを通すと、人は、そんな曲でさえも名曲だと思ってしまうものらしい。
また、K-POPが嫌い、という人も多い。
高校一年の娘のクラスの男の半数以上は、K-POPを嫌っていると言う。
男は単純だから、相手が高飛車な態度に出ると、無意識に反発するところがある。
そこに民族主義、国家主義が入り込んでくるから、なおさら敵視するのではないかと思う。
まあ、嫌うなら徹底的に嫌いになってもらいたいものだが、「KARAは、いいよな」という奴がいるらしく、娘は「そこが腹立つ!」と怒っている。
ちなみに、娘は、少女時代が韓国でデビューした時からのファンである。
(民族主義に凝り固まった方、怒らないでください。娘が最も尊敬し、神と崇めているのは、椎名林檎様ですから)
私はと言えば、先程も書いたように、音楽を「好き」「嫌い」で聴くから、それがどこの国の音楽だということには、こだわらない。
K-POPでは、BIGBANG(ビッベン)、2EN1(トゥエニワン)、BoA、SECRET(シクリ)が、好きだ。
そのほかのK-POPについては、似通ったダンス音楽ばかりなので、「誰が歌っても同じ」に聴こえる。
それに、「歌担(うたたん・歌担当)」と言われるヴォーカルが、音の最後を必要以上に同じ音階で引っ張る歌い方が好きではないので、聴いていて、時に鳥肌が立つことがある。
あの歌い方が「上手い」「格好いい」という人とは、私は明らかに価値観が違う。
あれは、はっきり言わせてもらうが、自己満足だ。
あんなに無意味に音を伸ばさなくても、音楽世界は表現できる。
音楽に抑揚は必要だが、音を伸ばしたからといって、抑揚はつかない。
あれは、無駄だ。
セリーヌ・ディオンが音を伸ばすのは、「ここぞ」という時だけだ。
「ここぞ」という時だけ、心を燃焼し尽くすような昂りを声に込めて、気を吐き出す。
彼女は、ただ音を伸ばしているわけではないのだ。
「歌の魂」を吐き出しているのである。
安易に音を伸ばせばいいというものではない。
K-POPアーティストの歌には、様式、模倣としての「気」はあるが、プロの歌い手としての「気」は感じられない。
そこが、嫌いと言えば、嫌いな点か。
要するに、私が音楽を聴くときは、「好き」「嫌い」に徹しているということ。
たとえ、好きなアーティストが歌った歌でも、自分の感性に合わなければ、嫌いと判断する。
盲目的に「好き」ということにはならない。
私は、そんな風に、音楽を聴いている。