10月25日に開催した第31回しずおか地酒サロン特別トークセッション「国境を越えた匠たち」。あっという間に1週間が経ってしまいましたが、やっと落ち着いてご報告できます。
しずおか地酒サロンはいつも20人程度の少人数で、蔵元や酒販店主や料理人を囲んで顔の見える交流をモットーに行っていましたので、今回のように一般に広く参加を呼びかけるのに慣れておらず、事前告知が、このブログと関係者を通してのチラシ配り、リビング静岡のイベント欄掲載、FM-HiのパーソナリティTJさんの番組告知ぐらいで(静岡新聞が記事で告知すると連絡をくれて、すっかり当てにしていたのですが、ボツだったようです…)、万全のPRとはいきませんでした。
それでもフリーアナウンサーの神田えり子さんがご自分のブログで一生けん命PRしてくださったり、金両基先生もいろいろなお知り合いに声をかけてくださったりして、約80名が集まりました。ブログを見たといって、東京からわざわざかけつけてくれた人もいました。本当にありがとうございました。
企画・準備・運営・MCでテンテコマイだった私は、貴重なトークの記録を、『吟醸王国しずおか』のカメラマン成岡さんに任せていたところ、当日、成岡さんが仕事の都合でギリギリの到着となり、撮影準備が間に合わず、録音準備もしておらず、大慌てで自分で速記をする羽目に。3人の持ち前が十分発揮された聴き応えある内容で、参加者からも高い評価をいただいたので、映像で記録できなかったことが悔やまれます。写真だけは、当日飛び入り参加してくれたSCV(しずおかコンテンツバレー推進コンソーシアム)専務理事の平尾正志さんが、バッチリ撮ってくれましたので、金先生がご自分で用意された進行台本と私の速記から書き起こしたセッション内容とともに、2回に分けてご紹介します。
しずおか地酒サロン特別トークセッション
『国境を越えた匠たち』 その1 ~ 国境を越えて見えたもの
◆出演 松下明弘(稲作農家)、青島孝(「喜久醉」青島酒造蔵元杜氏)、金両基(評論家・哲学博士・人権語り部)
(金両基)私はこの数年、不思議な縁で難事が解決したり、新しい出会いが生まれるといった経験をしています。この2人との出会いもそう。そもそものきっかけは「豊年エビ」でした。
今年6月、変人の会の酒井信吾さんに誘われて、松下明弘さんの田んぼに現れるという豊年エビを見に行きました。いつ現れるかわからないそうだが、エビというからには、うまいこと見つけられたら天ぷらにでもして食べるか(笑)と思って行ったら、偶然、映画を撮っている鈴木真弓さんに会い、青島孝さんを紹介された。酒造りの杜氏だというけど、メガネをかけた神経質そうな顔で、ひょろっとしていて、しかも農作業姿で、職人のイメージとはほど遠かった(笑)。しかも高校生の頃から私のことを知っているという。
(青島孝)先生が出演されていた討論番組を高校時代に見たことがありましたから。松下さんの田んぼでは、うちで使う山田錦という米を作ってもらっています。私自身、「酒造りは米作りから」をモットーとし、農作業も酒造りの一環だという意識で取り組んでいますので、夏場は松下さんを師と仰いで農作業に汗しています。冬場はこっちが上司の立場で、松下さんを蔵人としてこきつかっていますが(笑)。
(金)松下さんは9代続く農家に育ち、24歳の時、エチオピアに行って農業指導をしたそうですが、元来は農業に対して積極的ではなかったらしいね。どういう心境の変化だったの?
(松下明弘)小さい頃から親の仕事を手伝わされ、農家って強制労働だし児童虐待の典型だと思ってました(笑)。23歳のときオートバイ事故を起こして入院生活をしていたとき、たまたま海外青年協力隊の経験者の本を読んだんです。
日本は、農作物に近づく虫はすべて敵とみなし、ありとあらゆる農薬や化学肥料を使う農業をやっていて、それに多少の違和感があったので、アフリカにまで行ったら、何かつかめるんじゃないかと思った。
ところが農業指導という名目で現地に行ってみたら、教えることは1割ぐらいで、残り9割は教えられることだらけ。アフリカの暮らしって一般的には発展途上で貧しくて暗いイメージでしょう? でも彼らは石油エネルギーに頼らず、半年間農作業をして、雨季の半年は遊んで暮して、それで1年間十分に食べていける。半年遊んでいたって、誰も文句は言わない。これってものすごく豊かな暮らし方じゃないですか。彼らを見ていると、食うこと=生きることが人間の原点だとつくづく実感します。日本人は年中あくせく働いても、なかなか暮らしに満足できないでいる。ちっとも豊かじゃない。
(金)青島さんも家業を継ぐつもりはなく、しかも現代社会の最先端、今話題のニューヨークのファンドビジネスでカネづくりの夢を追っていたんだよね。そんなあなたがなぜ家業を継いで杜氏に?
(青島)中学生の頃、父親が祖父から家業を受け継いだんですが、当時の地方の酒造業は大変苦しい時代。父は私に「家を継ぐなんて考えるな、自分の道は自分で見つけろ」と言っていたんです。私も、冬場は朝早くから家の中で大勢の人間がバタバタしてるし、土日は手伝わされるし、両親は夏場も休むことなく必死に酒を売るのを見て育ったので、酒屋の主になる気はまったくありませんでした。
ニューヨークでは短時間で莫大なカネを稼げる人間が評価される世界に身を置きましたが、自分はやっぱり日本人で、しかも静岡というのんびりした土地で生まれ育ったからなんでしょうか、生まれながらのペースというものが捨てきれなかったんだと思います。億単位の数字を追いかける仕事から、今は、酒造道具のネジ1本20円30円に一喜一憂する暮らしです(苦笑)。
(金)2人が家業を継ぎたいと行った時のご両親の反応は?
(松下)2年間エチオピアにいて、日本に帰ってきた2年後に母がクモ膜下出血で急死し、母を失って急に気弱になった父が、その3年後に母の後を追うように亡くなりました。大変には大変でしたが、「これで自分のやりたいようにやれる」と思いましたね。村のシステムから外れたやり方を始めたんで、「松下の若いのがおかしなことをやりはじめた」と言われ、こっちもあえて近所とはかかわらないようにしたんです。
(青島)私が日本に帰ると言った時、父に笑われました。帰国を決断するまで半年ぐらい悩んで決めたのに、「ニューヨークで悪事でも働いて、そっちに居られなくなったのか」とね(苦笑)。
(金)でも帰ってきたところで酒造りはズブの素人でしょう?いくら蔵元の息子といったって。それでいきなり杜氏になろうとした?
(青島) ニューヨークは世界中からさまざまなバックグラウンドを持った人たちが懸命に自分の居場所を探す街で、自分とは何か?生きるとは何か?をつねに考えていました。で、酒造りのことを真正面から考えたとき、肝心の酒造技術は杜氏が持っていて蔵には蓄積されていないことに気づき、それでは製造業として存続できないと考え、最初から杜氏の技術を継承するつもりで臨みました。
(松下)アフリカでは、日本がどこにあるのか知らない人を相手に暮らしていました。日本人がいるらしいと聞きつけて隣村から見物に来て、「お前の髪の毛はまっすぐだなぁ」とか言って人の頭を触るんですよ(笑)。「日本ってどんな国?」ってよく聞かれるので、自分はここじゃ唯一無二の日本代表なんだと思い知らされました。
彼らはトヨタやパナソニックやヒロシマは知っているけど、それだけが日本じゃない。でもうまく説明できないんですよね。宗教や信仰心のことが話に出て「ブッダはお前に何を教えてくれたんだ?」なんて聞かれてもまるで答えられない。自分はそれまで日本人のつもりで生きてきたが、日本人だということを意識したことがなかったと実感しました。(つづく)