しずおか地酒サロン特別トークセッション
『国境を越えた匠たち』 その2 ~ “奇人変人、成功すれば開拓者”
(金)平成8年、松下さんは青島さんのお父さんに、酒の原料米を作らせてほしいとお願いに行ったんですね。成功する自信はあったの?
(松下)専業農家になろうと腹をくくり、酒米の勉強もしようとアポなしで青島酒造を訪ねました。ちょうど2月29日のうるう日でした。最初、奥さんが出てきて、奥にいた社長に「変な若い子が来た」と怪訝な顔で伝えたそうです(笑)。
すぐに酒米を作らせてもらえるなんて思っていませんでしたが、とにかく自分のコメづくりについて40分ぐらい話した後、雑談の合間に社長が「自分は旅行が好きでアフリカによく行く」と言ったので、「自分はアフリカに住んでましたよ」と答えたら、社長の顔がパッと明るくなったんです。どうも、それまで、家族や知り合いにアフリカ話をしても話半分ぐらいしか聞いてもらえずにいたそうで、それから2時間、アフリカネタで盛り上がりました。
そんな流れで「どうせ作るなら(酒米の王者である)山田錦を作ってみるか」と社長から言ってくれたんです。
(金)アフリカが縁だったんだ、面白いねぇ。青島さんは松下さんのことをいつ知ったの?
(青島)私が帰ってきたのは平成8年10月でしたから、そのころまだニューヨークにいて、母が手紙で知らせてくれました。アフリカ話の相手が出来たらしいとね(笑)。
それはともかく、父は、蔵を継いでからというもの、販売先に頭を下げて売って回るのをやめていました。別に取引先に不遜な態度を取ったというわけではなく、造り手として品質に自信のないものを売るのは失礼だ、自信と責任を持って造ったものなら、理解してくださる方は必ずいる、そういう酒を造らなければ生き残れない、と思ったからです。松下さんは、そのころの孤軍奮闘していた自分と重なって見えたんじゃないでしょうか。
(松下)当時いた青島酒造の番頭さんは、見ず知らずの若造に酒米を作らせるのに反対だったようですが、社長は「俺のポケットマネーで作らせるから、会社には迷惑かけない」と断言してくれたそうです。
(金)太っ腹だねぇ。青島さんのお父さんもたいした奇人変人だ。2人の奇人変人を育てた親玉なわけだ(笑)。
松下さんは青島酒造の期待に応え、結局、見事な酒米を作って見せた。一方、ヒノヒカリとか、あさひの夢とか、最近あなたが開発して話題になったカミアカリなど、コメの名前はお日様と縁が深いんですね。米作りは太陽信仰みたいだ。
(松下)確かにイネの名前は太陽にゆかりのある名前が多いですね。カミアカリは平成10年ごろ、コシヒカリを育てていた田んぼの稲刈りの数日前、なんとなく足が止まってつかんだ稲が、どうも枯れ具合も他と違うし、アタマ(胚芽)が3倍ぐらいデカかった。突然変異でした。ここから7年かけて選び抜いたのがカミアカリになりました。
(金)青島さんは今年、静岡県清酒鑑評会県知事賞を受賞された。杜氏の修業は順調だったというわけですね。ニューヨークでMBAまで行った人がいきなり肉体労働生活に切り替わっての修業は辛くなかったの?
(青島)全然。杜氏修業は前の杜氏に5年、現場でみっちり鍛えられ、技術的な面は県の河村先生に支えていただきましたが、まったく苦痛には感じませんでした。数時間で何千億はじき出すことよりも、数十年かけて価値が出るもののほうが尊いと思えたからです。
(金)実際に数時間で何千億、動かした経験があるからこその実感なんですね。まさに「奇人・変人、成功すれば開拓者」だ。
(青島)杜氏という職人の世界は、最低10年は修業だと思っているので、12年経った今、やっとスタートラインに立てたという心境です。まだまだやらねばならないこと、やりたいことがたくさんあります。
(松下)僕らの仕事は自然を相手にしているので、天井もゴールもないんですよ。
(金)ここで会場から質問を受けましょう。
(質問)自分も50歳を過ぎてから仕事を変えたんですが、お2人はどんなことに一番苦労しましたか?
(松下)一番苦しいのは自分との葛藤です。農家なら、少しでも収穫数量を上げたいと思うのがDNAに刷り込まれている。でも、量を増やすために肥料をたくさん与えたとすると、イネも人間と同様、メタボになります。もうちょっと肥料をまきたい、と思ってもグッと我慢です。
イネは植物だけど、ちゃんと人間を見ているんですよ。こっちが手を抜こうとすれば、イネのほうも「あいつがこれぐらいでいいと思ってるなら、こっちもこの程度でいいや」って思うらしくて、ちゃんとそのとおりのいい加減なイネになる。だから自分にもイネにもウソがつけないんです。
(青島)5年前から杜氏として現場を束ねていますが、酒造りは決して一人ではできない仕事で、造りの期間は寝食を共にするわけですから、チームワークが不可欠です。自分はチーム最年長でもあ り、若い者同士、チームとして互いの信頼感を保持するのに、やはり気を遣います。
(質問)松下さんは、なぜ喜久醉の酒米を作ろうと思ったんですか?
(松下)アフリカから帰ってきた平成元年ころ、静岡吟醸を呑んだら、それまでの日本酒とは違うと思った。日本人なのに日本酒を知らないのは恥ずかしいと思って、いろんな酒を呑むようになり、その中で喜久醉が一番口に合った。全身にスーッと溶け込むいい酒だと思ったんです。裏貼りを見たら、なんだ、自分ちから一番近い、すぐ近所の蔵じゃないかとわかって、プラッと訪ねたんですよ。
(質問)青島さんは、昨今の事故米のニュースを見てどう思いますか?
(青島)あくまでも私見ですが、事故米を買った酒造会社も同義的責任はあると思います。その会社は安いコメだから買ったんでしょう? 酒造用のコメは上物ならキロ1000円ぐらいするのに、30円50円で買えるなんておかしいと思うのが普通。いくら騙されたと言っても、現場でコメを見ればわかるはずです。わからないとしたら「自分は酒造りのプロとして失格です」と宣言したようなもの。同業者として残念でなりません。
(質問)大切にしている言葉を教えてください。
(松下)20歳の時、農業を教えてくれた先生に「植物にとって一番必要なものは何だ?」と聞かれ、堆肥とか水やりとかいろいろ挙げていったら、「それを全部ひっくるめて“愛情”って言うんだよ。愛情に勝る肥料はなし」と言われました。
(金)コメに人格があるかのように心を感じ取ろうとしている。青島さんも酒に対してそうですね。モノではなく命あるものとして向き合っている。
(松下)相手は生き物だから、モノを言わなくても何か発信している。それを受けとめるアンテナが大切です。
(青島)酒もモノは言わないが、麹やもろみの様子を目を凝らしてみると、いろんなことを発信している。ときには醗酵の音、ときには温度、ときには香りの変化で。五感を研ぎ澄ませて向き合えば、必ずわかります。それにいかに答えられるかですね。
私の好きな言葉は、やはり自分の師匠である河村先生から教わった言葉で、「真酒唯一」です。真(まこと)の酒の道は唯一つ、ということで、その道を究めるために今は精進しています。
(金)2人とも私より若いのに老境の域に達しているようだ(笑)。藤枝という地でモノづくりをするこだわりについては?
(松下)日本の地形は変化に富んでいて、田んぼ1枚1枚を見ても、あぜ道を挟んだこっちと向こうで土質が違う、なんてことがよくある。そう考えたら、藤枝でしか作れない米、造れない酒がきっとあるはずだと思います。
(青島)とくに志太地域は南アルプスの伏流水に恵まれています。名水どころは日本にたくさんありますが、意外に水量がなかったり枯れやすいところが多い。ここは、水質がよく、しかも水量が豊富だという点に価値があるのです。酒造りにとって命である水の心配がないというのは、大変ありがたいことです。
(松下)自分は夢というものを見ないんです。頭に浮かんだことは即、現実に向かって走り出す性格。夢が挟まる余地はありません。
(青島)酒造家として、この土地でしか造れない酒を造ることですね。自分たちが造る酒で、損をする人が一人もいない、そんなモノづくりを続けることが夢です。
(金)静岡、とりわけ中部や東部地域は、とかく、開拓者精神が育ちにくいといわれるエリアで、静岡に暮らして21年になる私もそう感じていたときに、2人の奇人変人、いや“開拓者”に出会うことができました。
このトークショーをプロデュースした鈴木真弓さんも、怖いもの知らずの奇人変人の一人です。先ほど上映された『吟醸王国しずおか』パイロット版も、成功すれば彼女も開拓者になるでしょう。こうした動きが活性化すれば、静岡は未来志向のエリアになるはずです。
一緒に夢が実る地域を目指しましょう。長い時間ありがとうございました。カムサハムニダ。