大徳寺黄梅院を後にし、タクシーに分乗して鷹峯に今年4月開館した古田織部美術館に向かいました。
美術館は、戦前、生糸で財を成した川村湖峯の本宅として造られた『太閤山荘』の土蔵を改築したもの。時間がなくて山荘自体は見学しませんでしたが、現在の建物は昭和初期の数寄屋造りで、天然の北山杉など貴重な銘木が使われているそうです。300坪の内苑、1500坪の外苑があり紅葉の名所としても知られています。
土蔵を活用したということで、想像よりもコンパクトな造りでしたが、織部の直筆の書をはじめ、織部作の竹茶杓、利休、織田有楽斎、秀吉の直筆の手紙など博物館級の古文書がズラリ。黒織部や志野織部などお馴染みの織部焼茶碗や、織部好みと伝わる茶道具があわせて50点ほど展示されていました。
古田織部については、学生時代にバイトしていた京料亭で斬新なデザインの器に出会ってから、陶芸家だとばかり思っていました。利休が好んだ地味で渋~い楽焼茶碗に比べ、織部焼の茶碗はあきらかな“変化球”。師匠の利休にへつらわない反骨アーティストなんだろうと思っていましたが、7年前、映画【朝鮮通信使】のロケで出会った京都堀川寺之内の興聖寺が織部建立の寺で、彼が大阪夏の陣で徳川方に一族もろとも処刑された武将と知りました。
朝鮮通信使の映画は家康の外交功績を称える内容でしたので、興聖寺の和尚さんからは最初、「徳川は敵や、そんな映画に協力はせぇへん」と断られてしまいました(苦笑)。「マスコミ取材はお断りだが坐禅に来る者は拒まない」と言われた私は、数回坐禅に通い、お目当ての松雲大師(家康と外交交渉した朝鮮国の高僧)の掛け軸を撮影させていただけることに。以来、仕事を離れて年に数回、坐禅に通っているのです。
ご承知の通り、古田織部はその後、漫画で人気になり、興聖寺にもファンから問合せが来るようになりましたが、私自身は作者の創意が加わった漫画や小説は避け、桑田忠親氏(文学博士・元東京大学史料編纂官補)の『古田織部伝』など歴史学者が書いた本で織部の人となりを学びました。
織部は最初、美濃の土岐氏に仕え、美濃が織田信長に平定されてからは織田家に仕え、ちょうど今、大河ドラマ軍師官兵衛で描かれている毛利攻め等で活躍。その後、秀吉に仕え、武力&知力&センスで三万五千石の大名にのし上がった生え抜きの戦国武将です。最後は家康に仕え、2代将軍徳川秀忠、本阿弥光悦、小堀遠州等の茶の師として重用されますが、大坂方のスパイ疑惑をかけられ、一切弁明をしなかったことから、大坂落城の折、切腹して果てたのでした。利休が秀吉から因縁をつけられても弁明せずに切腹したのと似ています。
織部は利休死後の茶の湯の名人として、豊臣氏よりもむしろ徳川氏に優遇され、関ヶ原合戦前後から天下の大名たちを門下に収めたのですが、門弟たちを徳川方や大坂方に分けることなく、平等につきあったようです。
実際、織部は駿府城の家康の元でも茶を点て、『駿府記』に「織部は現在数寄の宗匠である。幕下(将軍)ははなはだ織部を崇敬し給うので、諸士のうち、茶の湯を好む輩は織部について学び、朝に晩に茶の湯を催している」と紹介されています。その一方で、大坂方の重臣大野治房や、家康が大坂方にいちゃもんをつけた方広寺鐘銘事件で鐘銘を起草した清韓禅師を堂々と茶会に招いたりしていました。
「徳川氏の政令や家康の思惑などを無視し、それよりも茶の世界の秩序を重んじ、その信念の元に行動していたのである。この点は、前代の茶の湯の名人・千利休も同様であった。織部は日頃尊敬する清韓禅師の心の痛手を癒すために茶のもてなしをしたのである。それが、茶人としてなすべきことだと信じていたようだ」と桑田氏。なるほど、こういう人物は、天下人やその取り巻きにとっては疎ましく思えるでしょう。秀吉にとっての利休がそうであったように、家康にとっての織部は、次第に政権秩序を乱す危険人物となったのです。
さらにいえば、織部焼茶碗に代表されるような革新的デザインは、利休を茶聖と崇める門弟たちから見たら異端に見えたはず。織部が利休七哲(利休の7人の優れた弟子)に数えられるようになったのは、ずいぶん後の時代のようです。
桑田氏は「利休が静中に美を求めたのに対し、織部は動中に美をとらえようとした。それは武人としての本質から出発したものであり、武家風の雄大な、力強いものだ。同じく侘びた趣向であっても織部好みの侘びはさらに明るく、多様多彩である」としながらも、「利休の茶事の作意はきわめて自由闊達であり、形式と虚構を忌み嫌っている。利休に言わせれば、作意とは人まねをすることではない。新しい発見をすること。創意を凝らすことなのである。茶事の趣向はつねに新鮮でなければならぬ。新鮮であればこそ魅力があり、客を楽しませ、もてなすことができる。その点織部は、師匠利休の教えどおりを実施している。利休のまねをせず、むしろ極端にその反対を行なった。・・・もし、利休が生きていたなら、門弟中、わが道を最も正しく伝えたものは織部だ、とおそらく言うに違いない」と評します。
古田織部美術館を後にし、堀川寺之内の表・裏千家の“本丸”界隈を散策し、今日庵の前で記念写真。その後、堀川通りを隔てた西側にある興聖寺へ。織部の墓をお参りした後、夜18時から、古田織部四百年忌記念行事の一環で開かれた筝とチェロのコンサートを皆で鑑賞しました。
筝とチェロ・・・実に珍しい組み合わせの合奏です。チェリストの玉木光さんは赤ん坊のころから興聖寺の和尚さんに可愛がっていただいたというご縁があり、2013年までインディアナ州フォートウェイン・フィルハーモニー管弦楽団の首席チェロ奏者、フライマン弦楽四重奏団の一員として活躍されました。現在、ニューヨークを拠点に活動中で、妻の木村伶香能さんが箏・三味線を演奏する夫婦合奏も話題になっています。この日は織部に捧げるオリジナル楽曲もお披露目されました。
「芸術を愛した織部さんにちなんで、変わった趣向で四百年忌を迎えました。織部さんも喜んでくれると思います」と和尚さん。筝とチェロの不思議な調律に身を委ねていたら、大徳寺黄梅院で見た『主人公』の文字が浮かんできました。なにものにも流されない、そんな生き方を織部はほんとうに貫いたんですね・・・。(つづく)