杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

茶禅一味の京都課外授業・秋編(その2)

2014-10-30 08:42:23 | 駿河茶禅の会

 高台寺は臨済宗建仁寺派に属します。その大本山、建仁寺は、茶祖として知られる栄西禅師が1207年に開いた京都最古の禅寺。高台寺からは東大路通りをはさんで歩いて数分のところにあります。ちなみに栄西って正式には「ようさい」って読むそうです。

 

 建仁寺の目玉というと、俵屋宗達の傑作「風神雷神図屏風」や、創建800年記念で2002年に小泉淳作が描いた法堂の天井画「双龍図」が知られますが、我々が向かったのは茶室「東陽坊」。天正15年(1587)に秀吉が盛大に開いた北野大茶会で、利休の高弟で真如堂の東陽坊長盛が担当した副席だと伝えられています。二帖台目席という茶室ではおなじみのレイアウトだそうです。我々は東陽坊に隣接した呈茶席で一服いただきました。

 

 

 東陽房から方丈へ戻る途中に「安国寺恵瓊(あんこくじ えけい)首塚」を発見しました。大河ドラマ軍師官兵衛の毛利攻めの回で、毛利側の使者として官兵衛と対峙し、講和を結んだ“外交僧”としておなじみですね。

 

 恵瓊はもともと安芸国守護職武田氏の家系に生まれましたが、4歳のとき武田家が大内家に滅ぼされ、安芸国の安国寺に身を寄せてそのまま僧侶に。16歳の時に京都東福寺へ入り、35歳の時に正式に安国寺の住職となって毛利氏の外交を担当するようになったようです。当時、禅僧には宗教家ならでは人脈があって、大名同士の確執とは一線を置いた立場で自由に動くことができたんですね。後に秀吉から直臣の大名に取り立てられ、伊予二万三千石を与えました。その頃、安国寺の方丈を建仁寺に移築したり、東福寺の庫裏を再建するなど多くの復興事業で功績を残したそうです。
 関が原の戦いではご承知のとおり毛利氏が西軍の大将にかつがれ、恵瓊自身も西軍の最高首脳として参戦したものの、あえなく敗北。京都六条河原で斬首されました。享年63歳。その首塚が建仁寺にあることは、今回初めて知りました。

 

 夜は烏丸御池近くの京料理「亀甲屋」で、汲み上げ湯葉や季節料理と京の地酒を満喫。このブログを通して知己を得た花園大学国際禅学研究所の芳澤勝弘先生をゲストにお招きし、亀甲屋を紹介してくれたバイト先のお寺の奥様(龍安寺西源院の娘さん)も合流してくださって、大いに盛り上がりました。

 

 亀甲屋の女将さんは生粋の京美人で、芳澤先生が「長く京都に住んどるが初めてホンマモンの京都弁を聴いたなあ」と感心するほど。入店前、「(茶席に必要な)懐紙を忘れたのでどこか買える店はないか」と聞いたメンバーに対し、ちゃんと新品の懐紙を用意してお土産に渡すなど、おもてなしや気遣いも“ホンマモン”でした。

 汲み上げ湯葉は卓上で熱した豆乳を、チーズフォンデュのように自分で汲み上げていただきます。ウチワで風を送って表面を乾燥させるのがツボ。底に残った豆乳は、にがりを加えて“即席おから”みたいにしていただくんです。私はメニューにあった地酒をかたっぱしからきき酒するのに大忙しでしたが(笑)、メンバーは大いに楽しんで味わっていました。

 

 

 翌26日は興聖寺の達磨忌法要に参列しました。禅の始祖・達磨大師の命日は10月5日。全国の禅宗(臨済宗・曹洞宗・黄檗宗)のお寺で記念法要が営まれ、興聖寺では毎年10月第4日曜日に行ないます。私は7年前に映画【朝鮮通信使】の撮影でお世話になって以来、ほぼ毎年参加しています。

 達磨忌をはじめ、興聖寺の坐禅会や諸々の法事でよく読経するのが【大悲呪】と【観音経】。“ナムカラタンノートラヤーヤー”で始まる【大悲呪】については、6年前、こちらの記事で考察してみました。終わった後、メンバーから「お経が長かった~」と愚痴られましたが(苦笑)、坐禅でも読経でも茶席の正座でも、まずは体で慣れていくのが肝要なんですね。

 

 この日のハイライトは織部流の茶席です。興聖寺は古田織部が虚応円耳を開山に招いて開き、古田織部や曽我蕭白の菩提寺として知る人ぞ知る寺ですが、歴代和尚が茶道織部流の式正茶法(利休の侘茶以前、室町時代にメジャーだった書院や広間の茶でいただく書院茶に、武家の礼儀作法と侘茶の精神とを取り入れたもの)を伝えています。私は毎年、テーブル席で気軽に味わう立礼式の呈茶だけ満足していたのですが、今回は望月先生がいてくださるので、織部流の正式な茶席を初体験しました。写真撮影は遠慮したため、文字だけで説明しきるのは難しいのですが、裏千家の望月先生から見ると興味深い点がたくさんあったようです。

  

 まず、千家諸流と異なって、帛紗を右腰につけていること。織部の弟子だった小堀遠州が開いた遠州流も右。利休の先妻の息子・千道安の流れを汲む石州流も右だそうです。織部は徳川2代将軍秀忠、遠州は3代家光に茶を指南し、石州流は4代以降、徳川家の茶指南役として今に伝わる流派で、望月先生曰く「粗い表現をすれば、武家茶道の系統は右腰、と言える」そう。理由には諸説あり、一般的には「(席中でも)脇差を帯刀しているから」とのことですが、「ほとんどの人が右利きなので、右につけるのが自然。利休時代も右だったが、千宗旦が左利きなので、その後裔である三千家では左につけるようになった」との説も。

 茶道具を置く袋棚の客付(側面)に透かし模様が入っていました。何かいわれがあるのかと思ったら、この日の席主が香道の棚を真似てデザインしたとのこと。他の流派では宗家以外に出来るものではなく、「さすがに自由な発想を幹とする織部流。温故知新の具現化と感服した」と望月先生。“綺麗さび”と称される小堀遠州の好んだ品々も、この辺りが原点かと感じたそうです。

 お点前の最中で、釜を清める羽箒を使ったのも、望月先生は初体験だったそうです。現代の千家では、春季に釣釜を用いる際に羽箒を使用するそうですが、歴史的には幅広い時期に用いられていたことが茶会記にも記されており、その実証ではないか、とのこと。ほか、茶杓、柄杓、茶筅などの扱い方も「点前法のルーツを辿る観点で、大変参考になった」と満足していただきました。

 私のレベルではその違いがまったくわかりませんでしたが、千利休―千少庵―千宗旦と続く千家流が“王道メジャー”となった今、利休より前の書院茶&江戸時代の武家茶が融合した織部流に、茶の点前のルーツが残っているというのは、素人からみても大変興味深いお話です。

 

 この日のお茶は、これぞ「へうげもの!」という意匠の織部焼や、16~17世紀頃に安南(ベトナム)や朝鮮半島で使われていた食器など、博物館級の名品をおしげもなく使っていただき、同席した15人ほどがそれぞれの茶碗を見比べ、大いに楽しみました。

 

 茶席のあとは達磨忌恒例の興聖寺そばをたっぷりいただき、、奉納音楽会ではモンゴルの馬頭琴演奏を満喫しました。その後、興聖寺と堀川通りをはさんで反対側にある裏千家茶道資料館を見学し、本法寺~今日庵~不審庵界隈を散策。一條戻り橋の晴明神社まで足を運びました。

 晴明神社は陰陽師安倍晴明でおなじみ、今や修学旅行生の超人気スポットになっていますが、我々の目的は鳥居のそばに建つ石碑。千利休の屋敷跡だったんですね、ここ。ちょうど秀吉の聚楽第の端っこにあたる位置です。

 茶道講座のはじめの頃、五行陰陽について学んだことが思い出されました。詳しくはこちらの記事をご覧ください。

 

 この後、四条烏丸まで移動して自由解散。残った4人で伊勢丹京都店内の居酒屋でビールを飲み、塩小路高倉の「第一旭」に行列40分!並んでラーメンを食べて帰路につきました。お抹茶、お豆腐、そばとヘルシーメニュー三昧だったせいか、〆のビール&ラーメンに五臓六腑が音を立てて喜んでました(笑)。

 望月先生、お寺のヒサコ様、亀甲屋のマチコ様、芳澤先生、興聖寺の和尚様、そして参加者の皆さん、本当にお世話になりました!