杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

近江商人の酒蔵

2014-12-02 22:40:21 | 地酒

 このところの“白隠禅師熱”を機に、白隠さんが生まれ育った東海道筋の歴史について今一度勉強し始めています。酒造業の関係本から調べ直し、「そういえば東海道筋では近江商人が隠密活動のために造り酒屋を作ったんだよな・・・」と思い出して、読み始めたのが【近江日野商人の研究】(日本経済評論社刊)。ここに明治~大正期の静岡県内の酒米事情が書かれていました。

 

 大正期に編纂された『静岡県産業調査書』によると、酒造原料については、県内産がメインだが、時には肥後米、近江米、三河米が使われ、中でも近江米が主力だった―とあります。明治初期の近江米は品質粗悪だったようですが滋賀県が音頭を取って大粒米の改良を進め、明治22年の東海道線開通も後押しになり、県外へ販路が広がりました。お隣りの京都に60万俵以上(県外移出の70%強)出荷されましたが、静岡県にも6~7万俵(同6~7%)は行っていたとのこと。明治32年の『滋賀県実業要覧』によると、近江米の県外移出先上位は①京都、②大阪、③御殿場 ④浜松―という順位だそうです。

 同要覧には近江米の特徴をこう記してあります。

 

「米質改良組合設置以来、稲種改良はもちろん、乾燥、調整等に留意し、保存に耐え、概ね皮が薄く精米しても減耗することなく、食味のよい米である。さらに白玉、渡船、雄町等のような良種が多く、酒造の原料に適している」

 

 ちなみに現在の酒米キング「山田錦」は兵庫県農試で昭和11年に誕生。それ以前の酒米キングといえは備前赤磐郡雄町産の「雄町」でした。「白玉」は福岡生まれ、「渡船」は滋賀生まれです。現在、静岡県の酒蔵では滋賀県産の山田錦を使うところが増えているみたいですが、その背景には近江との長く深いつながりがあったんですね。

 

 では当時の静岡県産米はどうかというと、『静岡県産業調査書』には具体的な産地が記されておらず、近江日野商人の山中兵右衛門家が御殿場で開業したマルヤマ酒造店(酒銘は「富士戎」「開山」「雲上正宗」「翁舞」「吉端」)の仕入れ台帳に、富士郡吉原町(富士市)、駿東郡沼津町(沼津市)の地名がありました。吉原には矢部庄七、沼津には岡本市郎平という有力な米穀商がいたのが大きかったようです。鉄道輸送経路に拠点を持つ米穀商から酒造玄米をコンスタントに確保した・・・さすが隠密のDNAを持つ日野商人ですね!

 

 話は逸れますが、私のこれまでの地酒取材で最も縁の深い「磯自慢」「喜久醉」の2蔵は、静岡県がPRする県産酒造好適米「誉富士」を使用していません。前回記事で紹介した新事業創出全国フォーラムの交流会で、全国から来られた企業人の皆さんが交流会の席でこの2銘柄を試飲するのを楽しみにされていたのですが、県知事が乾杯の音頭を取るから、という理由で、会場では誉富士使用の酒オンリーになり、この2銘柄が見事に外され、当然ながらその理由を多くの人から訊かれました。

 業界内の複雑な事情について第三者の私が勝手な解釈をするわけにはいきませんが、長年、取材者として感じてきたのは、酒造業者にとって最も重要な原料である米のことについて、この2蔵は本当に早くから、真摯に、きめ細かく情報収集をし、現場を歩き、生産者や流通関係者と信頼関係を築き上げていた、ということ。まさに、近江商人にひけをとらない信用力と情報収集力です。けっして「米のことをおろそかにし、誉富士の使用者リストから外されたのではない」と明言しておきたいと思います。

 

 【近江日野商人の研究】には御殿場マルヤマ酒造店を例に、明治~大正期の酒造方法についても詳しく書かれていました。私が目を惹いたのは、杜氏集団のこと。大正期の静岡県下では能登(石川)、愛知の杜氏が活躍していたとのこと。さらに「県内では志太・浜名両郡の出身者が目立っていた」とあります。

 志太杜氏は知っていますが浜名湖周辺にも杜氏がいたんですね。そういえば大正時代の県下酒蔵軒数を調べていたとき、志太郡と浜名郡が突出して多かったことを思い出しました。やっぱり杜氏集団がいたんだ・・・いやぁ不勉強不勉強(恥)!

 

 マルヤマ酒造店は大量に仕入れた玄米を御殿場の隣村の高根村大堰に設置された水車で精米しました。明治34年(1901)の記録では、921,25石の玄米が831,4石の白米になった。精米歩合は91%程度、つまり約1割磨くことができました。それまでの足踏精米ではどんなに時間をかけても八分搗きが限度だったそうです。これによって、麹米のみならず掛米にも白米を使用する〈諸白造り〉が完璧に可能となりました。

 諸白の技術は室町時代に奈良正暦寺で確立されていましたが、全量白米仕込みを生産現場で標準化させるというのは、精米技術の進化を待たなければならなかったわけです。酒造史の本ではほんの数行で書かれたことも、こうして実記を読み解くと、そんなに容易ではなかったんだ・・・と真に迫ってきます。

 

 白隠さんの生きた時代の東海道を調べようと思ったら、すっかり酒造史にハマってしまい、とんだヤブヘビです(笑)。まだ全部読みきっていないので、山中兵右衛門家がどういう商家だったのか把握していませんが、初代山中兵右衛門は宝永元年(1704)に行商を開始し、御殿場には享保3年(1718)に店を構えた。その後、山中家は沼津に明和7年(1770)、天保7年(1836)に韮山に出店したそうです。白隠さん(1685~1768)とは初代~二代目あたりがどこかですれ違っていたかもしれない。ていうか、歴史に名を残す大店ですから、ひょっとしたら白隠コレクターかもしれませんね。

 ・・・ああ知らないことが山ほどあって眠れなくなりそう。