杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

白隠さんの折床會と朝鮮通信使扁額

2015-08-02 17:27:13 | 白隠禅師

 国際白隠フォーラムの余韻に浸る間、7月26~27日と京都へ坐禅に行き、30日には静岡県朝鮮通信使研究会に参加するなど、この夏は改めて歴史や禅の勉強で汗しています。何度も思うことですが、こういった向学精神をどうして10代20代の頃に持てなかったかなあと反省しきり。疲れ眼で長時間本が読めず、記憶力も衰えはじめ、最近ではパソコンで長文入力すると右腕がツルようになってきた(苦笑)。体力があって脳が柔らかい若い時期に、生涯取り組める勉強を始められたって人が途方もなく羨ましく思えます。

 

 それはさておき、30日の静岡県朝鮮通信使研究会は、北村欽哉先生が、静岡市内の寺に遺された朝鮮通信使の揮毫書が扁額(看板)になった年月の意味を読み解き、白隠さんの“暗躍ぶり”を示唆する絶妙のテーマでした。

 4年前の研究会で、北村先生は小島藩惣百姓一揆と白隠禅師と朝鮮通信使の関係性について試論をお話になりました。詳細はこちらこちらにまとめてありますが、かいつまんで紹介すると、小島藩というのは駿河国3郡(有渡・庵原・安倍)―今の清水区興津から駿河区下島あたりまでを治めていた小藩で、財政難に苦しんでいて、白隠さんが殿様に「民百姓を労われ、贅沢を戒めろ」とキツイ忠言(夜船閑話に書かれた手紙)をした。藩政改革に取り組むもうまくいかず、ますます年貢増徴となって、堪忍袋の緒が切れたお百姓さんたちは、殿様の親戚筋にあたる亀山藩主松平紀伊守のもとへ駆け込み訴訟を起こし、年貢を元に戻した。このときの訴状を書くのに白隠さんが「“朝鮮通信使の通行に協力しないぞ”と脅してみろ」とアドバイスしたというのが北村説。今ならさしずめ、新国立競技場の建設現場で「無駄遣いをやめないとボイコットするぞと脅してみろ」と言うようなものでしょうか(笑)? 

 ちなみに白隠学の芳澤先生がよくおっしゃるには「百姓」とは、古い大和言葉では“はくせい”と読み、天皇が慈しむべき天下の宝である万民という意味。民が身に着けた100通りの生業、という意味もあり、本来、差別用語ではないとのことです。

 

 北村先生が小島藩惣百姓一揆と白隠さんの関わりを、時間軸でまとめてくださいました。

 

1755年 白隠、龍津寺(りょうしんじ=興津の小島陣屋南)維摩会に呼ばれる。小島藩主松平昌信が聴法し感銘を受ける。このとき、蔵珠寺、養田寺も訪問。藩主に夜船閑話を呈上。

 

1759年 小島藩で新役人が登用されたが、白隠が「追従の佞臣」と批判した無能役人ばかりで、重税政策に拍車が掛かる。

 

1760年 徳川家治が10代将軍になる。

 

1762年4月 一揆の訴状が駿河西島村の光増寺で作成される。同時期、白隠が光増寺にいた。*沼津・大聖寺所蔵の白隠筆『竜杖』の賛「宝暦壬午夏佛誕生日駿府城南西嶋 光増寺従義杲上座」による。

 

1764年9月 第11回朝鮮通信使が駿河を通過。

 

1765年 小島藩で役員が罷免。徴税方法も元に戻され、百姓側が勝利。

 

1767年 白隠83歳、光増寺に招かれ法会を行なう。「中寶山折床會拙語」を記す。翌年、亡くなる。 

 

 

 白隠さんが生きておられた間、朝鮮通信使は1711年、1719年、1748年、1764年と、計4回も東海道原宿を通っています。国際白隠フォーラムでもふれたように、大衆芸能に精通しておられた白隠さんのこと、朝鮮通信使にも興味シンシンで、朝鮮の馬上才(馬乗り曲芸)を数点描いています(私が白隠さんに関心を持ったのは、この馬上才の画を酒のラベルにした白隠正宗がきっかけ。昔は大吟醸、今は純米代吟醸に使っています。)。

 

 

 その白隠さんが、1764年明和宝暦の第11回朝鮮通信使が通過し、その翌年に小島藩で無能役人が追放されて年貢取立てが元通りになった後、光増寺の涅槃会に招かれた。御齢83歳。沼津から静岡まで歩かれたのか駕籠に乗られたのかはわかりませんが、とにかく肉体的負担は大きかったはず(かなりのメタボ体型だったよう)。それだけに、ただの涅槃会ではなかったのでは、と北村先生は推察します。

 光増寺に残る「中寶山折床會拙語」には次のようなことが書かれています。中寶山とは光増寺の山号です。

 

  明和第四丁亥春 應請駿陽西嶋邑 光増梵刹之純信 依遠近緇素懇望

  講妙大師語録 開筵仲春涅槃日 聴聞男女如蟻聚 就中三月第五日

  彌満方丈立庭上 堂上内外俄騒動 何計蹈折上段床 昔伝明住東寺時

  多衆鬧熱床脚折 貴賎喜言折床會 誰計今五百年後 聴徒多見此盛事

  昔有金口所説法 施撤充三界樂具 似施與世間一切 一句法施徳遥勝

  豈謂寶山譫語中 有斯希代大盛事 汝等誓不顧軀命 須見性如見掌上

  見性莫得小為足 偏捜索内典外典 集大法財達故実 広行法施利群生

  法四抑言故為事 言救三途地獄苦 若無三途地獄苦 仏像祖像将何用

  西国四国誰進歩 現世如何暮夢内 勤勉須助未来世 若人欲免未来苦

  只無越聞隻手聲 直是向上玄関鎖 

  明和第四丁亥上巳日 十七世遠孫沙羅樹下八十三歳 老衲白隠叟書

 

 明和4年の春、駿河西島村の光増寺と近在の僧侶や在家の人々から強く望まれ、白隠さんは妙超大師の語録を講義されました。開催中の2月25日は男女が蟻が群がるように集まり、3月5日には本堂が満員となり、入れない人は庭で立ち聞きしていた。そのとき、本堂の中と外が俄かに騒がしくなる。なんと、本堂の床が抜けてしまったのです。当代随一の高僧で、庶民の味方で人気者の白隠さんといえども、法会中に寺の本堂の床が抜けるなんて滅多にないことでしょう。白隠さんは「昔、中国の伝明大師が東寺に居られた頃、多くの民衆が押しかけて床を支える柱が折れてしまったことがある。しかし皆はそのことを喜び「折床会」と呼んだそうだ」と書いておられます。

 白隠さんが「500年来の折床会」と喜んだ、この明和4年の光増寺涅槃会は、弟子の東嶺がまとめた「白隠禅師年賦」にはなぜか書かれていないそうです。「百姓一揆に関する事だから避けたのでは?」と北村先生。この涅槃会はただの涅槃会ではなく、一揆に勝利した民衆が白隠さんへのお礼の意味で招聘し、白隠さんもそれに応えようと老体に鞭打って来られたのではないかと。さしずめ、民意を貫き通した市民革命の祝勝会?

 

 ところで光増寺の山号「中寶山」の扁額は、1711年にやってきた第8回朝鮮通信使の写字官・李爾芳(花菴)に書いてもらった文字。扁額といったら横長長方形のすっきりした板に書くことが多いのに、光増寺の山号はゴツゴツとした板木に彫られています。白隠さんが1768年亡くなる直前に訪ねたとされる由比の常円寺には、1748年第10回朝鮮通信使写字官・玄文亀(東厳)に書いてもらった山号「法城山」が。こちらもゴツゴツの板木です。

 実は朝鮮通信使扁額の宝庫・清水の清見寺にも、1枚だけ、ゴツゴツした板木に彫られた戌辰(1748年)使行三使詩板というのがあります。1764年の第11回朝鮮通信使使行録(随行員日記)に「戌辰年の三使が、丙午年(1636年)の三使の詩の韻をふまえて作ったもの」と報告されています。ちょっとややこしいですが、とにかくこのゴツゴツ詩板が作られたのは白隠さん存命時のこと。北村先生は、光増寺、常円寺と合わせた3つのゴツゴツ扁額は、いかにも白隠さんらしい個性的なデザインで、朝鮮通信使に強い関心を持っていた白隠さんが各寺に扁額を作るよう助言したのではないかと推察されます。先生は実証をつかむべく調査継続中。・・・白隠研究にも朝鮮通信使研究にも光をもたらす一石二鳥の成果に期待が膨らみます。

 写真は北村先生のレジメより。モノクロコピーで見辛いかもしれませんが、上から常円寺の山号「法城山」、光増寺の山号「中寶山」、清見寺の戌辰使行三使詩板です。

 

 

 私は7月27日、京都の花園大学国際禅学研究所を訪問し、その足で相国寺承天閣美術館を回り、相国寺塔頭である慈照院(銀閣)の朝鮮通信使関連資料が京都市文化財指定を受けたことを知りました。朝鮮通信使には京都五山の高僧が外交接待役として江戸まで随行しており、今回指定を受けたのは第8回(1711)通信使に随行した相国寺第103世・慈照院第9世の別宗祖縁(べっしゅうそえん)禅師関連のもの。道中、信使たちと詩文や書画を交換し合う等、当代一の教養人同士の文化交流が行なわれたんですね。清水の清見寺に残る扁額の数々も、その一端。こういうものに文化財としての光をあて、現在は平成29年ユネスコ世界記憶遺産の登録を目指しています。

 一方、白隠さんは東海道とその周辺で生活に苦しむ庶民を救おうと、村々を歩き、藩主に忠言し、朝鮮通信使の通行を社会改革に生かそうとされた。こんな宗教家が他にいただろうかと、改めて眼からウロコの連続です。白隠さんの年表からも外された「中寶山折床會拙語」などは、ユネスコの世界遺産とは縁がないかもしれないけれど、駿河3郡の市井の人々にとって確かな記憶遺産になった・・・駿河3郡の市井の子孫である自分はそう信じたい、と思います。

 

 相国寺を後にした私は、平成28年に臨済禅師没後1150年、平成29年白隠禅師没後250年の節目を前に「百萬人写経運動」を展開中の妙心寺に向かい、白隠禅師坐禅和讃を写経しました。そして夜は、朝鮮通信使が縁で8年前から通う興聖寺の坐禅会。京都でも静岡でも、偉大すぎる白隠さんの影を一人で追いかけるのは辛い修行のように思えますが、本をかじったり講演を聴くだけでは申し訳ない、じっとしていられない・・・この夏は時間があればお寺のアルバイトで汗を流し、「don't think, look」「動中工夫勝静中」に努める毎日。そんな気持ちになるのも、やはり、白隠さんご自身がつねに行動し、実践を積み重ねてきた方だからでしょうか。

 大本山妙心寺の百萬人写経は、事前予約不要で、誰でも参加OK。「般若心経」「延命十句観音経」「白隠禅師坐禅和讃」「四弘誓願」の中から選べます。一経につき1000円。京都に行かれる方はお時間があったらぜひ。ただし、写経道場の大方丈西の間は冷房設備がありませんので、この時期、タオルや手拭い必携です。写経セットを1000円で購入し、自宅で書いて後で郵送、でもOKみたいですよ。