熱風の如く8月のお盆ウィークが過ぎ去りました。今年もお寺のバイトで汗を流し、空いた時間は図書館や映画館で涼んでいます。
4月に国立公文書館で終戦詔書(原文)を、靖国神社で阿南惟幾陸軍大臣の「一死 以テ大罪ヲ謝シ奉ル」の血染めの遺書を観て以来、昭和史を真剣に勉強してこなかったことを恥じ、この夏はとりあえず、原田眞人監督の映画『日本のいちばん長い日』をまず観て、原作者半藤一利氏の『日本のいちばん長い日(決定版)』、『聖断~昭和天皇と鈴木貫太郎』、『あの戦争と日本人』をたてつづけに読んで、BSで8月15日に放送された岡本喜八監督の『日本のいちばん長い日』(1967年製作)で復習し、70年前の8月を“脳内・追取材”してみました。
岡本版では昭和天皇がまだご存命だったこともあってか後姿と声のみの登場(松本幸四郎さんが演じていたらしい)でした。イギリスのエリザベス女王はご存命にもかかわらず堂々と映画化されてますが、日本ではそうはいかないのでしょうね。原田版では本木雅弘さんが血の通った人間として演じきっていて、時代が変わったというか、昭和天皇がある意味、歴史上の人物になられたのだなあと感慨深くなりました。モッくんの昭和天皇、品があってよかったですね。
半藤作品の登場人物で最も惹かれたのは鈴木貫太郎首相です。原作を読む限りでは「山崎努ではなく笠智衆だなあ」と漠然とイメージしていたのが、岡本版で本当に笠さんが演じておられたのでビックリ。笠さんらしい魅力的な“棒演技”(失礼!)でしたが、作品が全編通して実録ドキュメントタッチゆえ、登場人物の人間性に触れる描写が少なく、半藤氏が綿密に取材され、私自身も深く感じ入った「日本史上最難局の内閣総理大臣がこの人でよかった!」と思える鈴木像が今ひとつ伝わらなかったのが残念でした。
岡本版で三船敏郎さん、原田版で役所広司さんが演じた阿南陸軍大臣も、日本史上初めて戦争で負けを認める国軍トップ、という最難局に文字通り命を捧げた人。看板役者が堂々と演じたことで、画面を通してその功績を伝えようとされたのでしょうけど、原作を読んでみて初めて、阿南陸相の置かれた立場の本当の難しさ、鈴木首相との絆の深さが理解できました。
これだけの原作を2時間ちょっとの映画にするって、脚本に書き起こすときや映像を編集する時点でどうしても取捨選択せざるをえないでしょう。丁寧に描きたくても商業映画ではそうはいかない制作者の苦しさはよく理解できます。2時間だと要点だけをつなげただけって感じになっちゃうんですよね・・・。原作を読み込んだ人ならまだしも、まったくの初見者が1回観ただけでは十分咀嚼しきれません。なにしろ登場人物がみんな軍服か背広姿だし、舞台は基本、宮城(皇居)とその周辺だけだから、区別が付きにくい。イマドキのテレビのように丁寧に文字テロップで解説、なんてこともないから、宮城(きゅうじょう)が皇居のことだということも最初は分かりませんでした(苦笑)。
素晴らしい原作なので、できたら日本のいちばん長い日=昭和20年8月14日昼の「聖断」から15日昼の玉音放送オンエアまでの24時間を、ジャック・バウワーの「24」みたいに時間通り(原作も1時間ごとに章立てされているので)1話1時間×24回の連続ドラマか、NHKの『坂の上の雲』みたいなスペシャルドラマで丁寧に描いてもらいたいなあ、と思います。
ちなみに半藤氏は「日露戦争後の日本はそれまでの日本とは違う国家になった」と述べておられ、勝っても負けても、国の将来をしっかりと見据えた戦後処理がいかに大事かを考えさせてくれます。日露戦争は膨大な軍事費を捻出するために国民が辛酸を舐め、戦死8万4千人、戦傷14万人を出す〈惨勝〉だった。しかしながら幕末のペリー来航による開国以来、臥薪嘗胆の末に近代国家を築いた日本人にしてみれば、「勝った」という一点にすべてが上書きされ、まっとうな判断力が断絶してしまった。日露戦争後の日本には①出世主義・学歴偏重主義、②金権主義、③享楽主義、④社会主義が出現し、国のために命がけで働いた幕末の志士や近代国家を育てるために我慢強く努力してきた日本人とは別の人種になってしまったという。「太平洋戦争敗戦の遠因は日露戦争にあり」と半藤氏。その意味で、『坂の上の雲』から『日本のいちばん長い日』までを一つの流れとして観てみたい気もします。
鈴木貫太郎は1867年、大政奉還の年に旧幕臣の家に生まれ、海軍に入っても薩長軍閥の壁を実力で突き破り、日清・日露戦争で軍功を挙げ、海軍大将にまで昇りつめ、昭和天皇の侍従長となり、二・二六事件で襲撃されて九死に一生を得、一貫して「軍人は政治に関わってはならない」という信念で政治とは距離を置きながらも、昭和天皇から強く依願されて昭和20年4月、最年長の77歳で内閣総理大臣に就任しました。玉音放送の後、内閣総辞職をし、「国賊」として命を追われ、故郷の千葉・関宿に落ちついてからは畑仕事をしながら農業青年たちを集めて勉強会を催し、農事改良と酪農による地域活性化を説き、80年の生涯を終えたそうです。鈴木首相の秘書を務めた長男の一(はじめ)氏あたりを〈語り部役〉にすれば、日本の近現代史を走り抜けた人間ドラマになるんじゃないかなあ・・・。
私が惹かれたのは、鈴木貫太郎がことあるごとに、徳川家康が武田軍に敗れた三方原の戦いや小牧・長久手の戦い(秀吉軍に勝ったのに臣下に下った)を教訓にしていたこと。また、こういう奉公十則を海軍兵学校卒業生たちに指導していたそうです。
一、窮達を以て節を更うべからず
一、常に徳を修め智を磨き日常のことを学問と心得よ
一、公正無私を旨とし名利の心を脱却すべし
一、共諧を旨とし常に愛敬の念を有すべし
一、言動一致を旨とし議論より実践を先とすべし
一、常に身体を健全に保つ事に注意すべし
一、法例を明知し誠実に之を守るべし、自己の職分は厳に守り他人の職分は之を尊重すべし
一、自己の力を知れ、驕慢なるべからず
一、易き事は人に譲り難き事はみずから之に当たるべし
一、常に心を静謐に保ち、危急に臨みては尚沈着なる態度を維持するに注意すべし
半藤氏の『聖断』には、鈴木貫太郎がこの奉公十則をのちに首相として戦争終結の懸命な努力のうちに実践したと紹介されていました。彼は軍人ながら大変な読書家で、『老子』を愛読していたようです。この十則を眺めていると、今、茶道や禅で勉強している〈吾唯知足〉〈得意淡念・失意泰然〉といった言葉を思い起こします。白隠さんの〈動中工夫勝静中〉は知っていたのかなあ・・・。
私がバイトをしているお寺の本堂には、白隠禅師が書かれた『爪牙窟』という扁額が掛けられています。爪牙(そうが)とは文字通り、相手を攻撃する武器という意味と、主君を守り手足となって働くというダブルミーイングを含んでおり、寺の扁額に書いたとなれば、釈迦の教えを守る場所、あるいは仏道のために身を粉にする者たちの修行の場、ということになりましょう。この扁額、昭和20年の空襲で寺が全焼したとき、他の落下物に覆われ、唯一、焼失を免れました。「牙」の字の上部が白く逆三角形になっていますが、ここだけ焦げずに残ったんですね。なんとも不思議なデザインになったものです。
・・・昭和20年8月14日午後、戦争続行!と血気走る陸軍青年将校を前に阿南陸相が「聖断は下った。不服のものは自分の屍を越えてゆけ」と言い放ってからちょうど70年後の同日同時間、戦火をくぐり抜けたこの扁額の前にいた私は、しばし見上げてため息をつくしかありませんでした。鈴木貫太郎も阿南惟幾も、昭和天皇の意志を守る爪牙となった。この白隠さんの扁額が奇跡的に生き残ったのも、何かを守るためでしょう。何を、なぜ、どうやって守るべきなのか、平和ボケしてる私にはとてつもない難題です。
今の政治家は爪牙という言葉をどう解釈するのでしょう。いや、今の政治をあれこれ評価する以前に、奉公十則を実践したという70年前の爪牙たちに恥じない生き方を自分はしているのだろうか。15日正午の黙祷は、そんなことをつらつら考える時間になりました。
『日本のいちばん長い日』は何度かリピートして観る価値のある映画だと思います。できたら原作本を読んで脳内補填されることをお勧めします。